切り取ってよ、一瞬の光を

エンターテイメントの話

ジャニオタに至るロング・アンド・ワインディング・ロード

ジャニオタの方々を見ていると、「若い頃はバッチバチのオタクまたはサブカルで、ジャニーズには全然興味がない、むしろ『ジャニーズ(笑)』というスタンスだったのに、大人になってから突然すごい勢いで沼に転げ落ちてしまった人」が、一定数いるようである。私も(バッチバチではないにせよ)その一人だが、この現象はアイデンティティや自意識と深く関連しているのではという気がしている。自分の「オタク期」から「サブカル期」、「空白期」、そして「ジャニオタ期」への変遷をなぞりながら書いてみたい。

 

 

オタク期

レベル:10~15
ぞくせい:くらめのオタク
そうび:ふところのナイフ

 

私は田舎の公立校で思春期を過ごした。外見はよろしくない、運動はできない、コミュ力もないタイプで、スクールカーストの中〜下あたりでひっそりと生きていた。気の合う友人はいたが、様々なタイプの人間がひとところに押し込められたような学校はとにかく居心地が悪かった。クラスの中心にいるような、「外見の良い魅力的な人気者」に対する強い劣等感を抱く反面、そういう人たちは大抵チャラついたりイチャついたりヤンチャしたりしていたので、とても忌々しく思っていた。

幸か不幸か、私は少し得意なものがあったために、「私はこいつらとは違う」という選民意識を持ち、劣等感で空いたアイデンティティの穴を補うになる。パッと見こそ地味なものの、懐に隠し持ったナイフを研ぐように、内向きにチョンッチョンに尖っていたのである。

また、そんな環境から逃避するため、漫画、アニメ、お笑い、音楽などを趣味とし、黒歴史的な創作活動を行い、ダイアルアップでピーヒョロロ~とインターネットに接続し、掲示板や、個人の創作・感想サイト、テキストサイトを巡回するなどして過ごしていた。

 

この頃のジャニーズはSMAPTOKIOが活躍し、Kinki Kidsが華々しくデビューし、Jr.黄金期が始まろうとしていた。母の影響でKinki Kids堂本光一さんを好きになり、「LOVE LOVE あいしてる」等を楽しむようになった私は、小学生女子にありがちな自己紹介カードの好きなタレント欄に「光ちゃん」と書いた。

しかし、ジャニオタの芽は無慈悲にも摘まれてしまう。自己紹介カードを見たキラキラ女子に「光ちゃんって(ワラ)いや、ジャニーズ好きってキャラじゃないっしょ(ワラ)」と嘲笑されたのである。目の前が真っ暗になった。「光ちゃん」と書いた私もまあまあイタかったし、彼女は軽くからかうくらいの感覚だったかもしれないが、その言葉によって「ジャニーズは私ではなく彼女たちの文化である」と痛感したのである。

ピカピカした衣装で、愛とか恋とかの曲を歌い、疑似恋愛を煽ってくる顔の良い人気者の男性たちは、よくよく考えると、私が苦手としていたクラスの男子そのものだった。ジャニーズとの疑似恋愛の相手は、現実世界同様、私ではなく彼女たちがふさわしいのだと思った。こうして私は画面の向こうの人気者にも気後れするようになり、上記のオタク趣味にますます没頭していく。「私→コンテンツ」の一方通行、または「私→誰か⇔誰か」の関係性を端から見ている分には、自分を否定されることがないし、純粋に楽しかった。自己肯定感の低さゆえの「自己不在」である。

 

サブカル期

レベル:16~23
ぞくせい:サブカルかぶ
そうび:サブカルのよろい

 

高校・大学と進むにつれ、苦手な人の割合が減り、学校コミュニティは息がしやすくなった。高校で衝撃的だったのは、男子も女子もみな真面目で穏やかで優しく、異様に可愛く洗練された子が多いにもかかわらず、私にも対等に接してくれるということだった。派手なグループや地味なグループがあったが、マウンティングなどはないし、お互いに個性や長所を認め合うような空気があった。ここには暖かい寝床とパンとシチューがある。もう外敵に怯えなくていいんだ。山から人里に出てきた私は、心のナイフをおさめた。

しかし、広い世界に出たことで、自分が井の中の蛙であったことに気付く。得意だと思っていた分野において、自分よりはるかに高いレベルの人たちがワサワサしている。アイデンティティを補強していた選民意識の崩壊である。「自分はどうやら特別な何者かにはなれそうにない」という現実を受け入れざるを得なくなった私は、代わりにサブカルのよろいをまとうことで、アイデンティティを守ろうとする。

サブカルは、「なんだか高度に文化的で通っぽくておしゃれで頭がよさそう」な趣味嗜好であり、サブカル的なもの自体が魅力的だったことに加え、「(特別な人間ではないけど)そこいらの人とはちょっと違うワタシ」をアピールするラベルとしてうってつけだったのだ*1。 

 

この頃、ジャニーズはKAT-TUNを筆頭にオラオラ感が強く、「明るめの茶髪、長い襟足、鋭利な眉毛、ごつめのシルバーアクセサリー、やたら暗い室内又は夜のガード下のフェンス」のような、ヤンキーや不良に似た印象があった。一方、嵐は正統派ジャニーズっぽさとメンバーの仲の良さ、楽曲のキャッチーさを武器に、国民的アイドルになりつつあったように記憶している。

当時の私にとって、いずれもジャニーズは「わかりやすくかっこいいもの」だった。大衆性が高く、ファンが多く、露出も多い。理解するのに知識がいらない、テレビをつけるだけで受動的に摂取できるコンテンツ。あざとくかっこよさをアピールするやり口や、歯の浮くようなセリフ、特に上手いわけではなくどこかで聞いたようなそれっぽい曲は、「どうせお前こんなん好きなんやろ選手権」*2のように思えた。そんなものに夢中になるなど事務所やメディアの思う壺である、かっこつけすぎて逆にかっこよくない、と思い、彼らとそのファンを軽んじていた。

 

しかし、しばらくして私はサブカルになりきれない自分に気づく。邦ロック等を好んで聴くものの、コード進行がどうのとか邦楽史的な位置付けがどうだとかはよくわからないので、「『ばらの花』*3のメロディ、なんかすごくキレイ。歌詞もエモい。ジンジャーエール飲みたい」等といったあたまのわるい感想しか抱けないのである。極めたいならサブカル的な歴史や理論を勉強すればいいのだが、義務感に追われるのは嫌だった。

さらに、「サブカルでっせ!どや、おしゃれでっしゃろ!」と主張するものを、ありがたがって摂取する行為は、サブカルの精神に反するのではないのではないか?という疑問が生じてくる。……待って、これ、「どうせお前こんなん好きなんやろ選手権」だ!

サブカル的なものが①本当に好きなのか、②サブカル的に良いものであるとされているから好きなのか、③「サブカル的に良いものが好きな自分」が好きなのか、わけがわからなくなってしまった。 ①と言い切るには知識や意欲が足りないし、②はダサいし、③が真実なのだが、あまりにも自己愛にまみれていて認めたくない。私は結局、サブカルのよろいで身を守ろうとしたものの、くさりかたびらではなく、単語カードをとめる銀のわっかをたくさん繋げたもの*4しか身にまとえなかったのである。

 

空白期

レベル:24~26
ぞくせい:ふつうのひと
そうび:なし

 

この頃は仕事、結婚、出産、育児等で人生が忙しく、「挙動はめっちゃオタクっぽいのに特に何のオタクでもないふつうのひと」として過ごしていた(しいていえばさまぁ~ずの番組を熱心に見ていた。)。

結婚して一番ほっとしたのは、もうモテとか可愛さとかの尺度に振り回されなくて済むということで、それは「外見の良い魅力的な人気者」に対する劣等感からの解放だった。また、夫がオタクでもサブカルでもなく、そういうカテゴライズやラベリングに興味がない人間であったため、もうサブカル等の威を借りて自分を繕わなくてもいいのだと気づかされた。

一方で、自由度の高い学生時代とは異なり、日常生活において腹立たしいことも悲しいこともたくさん出てきたので、趣味などの自分に選択権があるものにおいては、負の方向に心を揺さぶられたり、しんどい思いをしたりしたくない、ただ心安らかに純粋に楽しいものだけ摂取したい……と思っていた。

 

そこで行きついたのがエンターテイメントの王者、ジャニーズである。

 

ジャニオタ期

レベル:27~
ぞくせい:ジャニオタ
そうび:ペンライト、そうがんきょう、うちわ、メンバーカラーのふく

 

楽しくて楽しくて楽しいジャニーズを知って、私はオタクの本領を発揮し、電光石火のスピードでズブズブに沼にハマってしまった。

若い頃、恐れたり軽んじたりしていたジャニーズは、「苦手なことや望まないことでも向き合って努力する」「自分と違うタイプの人でも受け入れて関係を構築する」といった、私が避けてきたことを、若い頃から真摯にやってきた人たちだった。私は大人になってようやく、彼らが特別な存在なのは、決して外見の良さだけによるものではなく、努力の賜物であることを知るのである。

そして、ジャニーズの「どうせお前こんなん好きなんやろ選手権」は、彼らと周囲の人たちが本気で作っているものであり、想像以上にハイクオリティで、ファンのツボを突いてくるものだった。また、疑似恋愛だけがジャニーズの楽しみ方ではない。人としての魅力やメンバーの関係性などを楽しむことは、暗めのオタク時代に染みついた「自己不在」の精神にフィットしている。

 

特攻服を着てポケットバイクを乗り回していた関ジャニ∞は、キャリアを重ね、ある程度の落ち着きと大人の魅力を得て、それでいて少年(一部幼児)のような可愛さを失わず、突然女子高生になるなどして、貪欲に前に進み続けていた。その道筋と、自分の人生と成熟度合いがタイミングよく交錯して、私は関ジャニ∞のファンになったのである。

もっとヤンキー感が薄く、オタクみ・サブカルみのあるジャニーズはいるはずなのだが、関ジャニ∞は「関西弁が好き」「邦ロックとか好き」「仲良しおもしろおじさんが好き」という私の好みに合致したのだと思う。何か要素が欠けていたり、タイミングがずれていたら、こうはならなかっただろう。これまで自分が歩んできた、長く曲がりくねった道が肯定されるような幸福感を感じる。「ご覧、ほらねわざと逢えたんだ*5」という一節を、うちわに書いて掲げたい気分である(たぶんうちわ一枚には収まらない)。

 

私は恥ずかしながら30歳近くなって、ようやく、なんのしがらみもなく、好きなものを自分で決められるようになった。先入観や偏見なく、良いものを認められるようになった。ジャニーズも、ジャニオタのみなさんも、ジャニオタである自分も好きだ。長い長いアイデンティティの模索と自意識の葛藤の末に行きついたのは、「ジャニオタ」という属性だった。いま、とても満たされている。居心地が良くて、楽しい。それゆえに、この沼からはなかなか抜け出せないような気がしている。

 

 

*1:このあたりの話は、「V6担兼NEWS担の友人とサブカルになりそこねた私の10年」と重複する。

*2:ダウンタウンガキの使いやあらへんで!」のコーナー名。ゲストが好きそうなものをレギュラーメンバーそれぞれが選ぶコーナー。

*3:メロディがなんかすごくキレイで歌詞がエモいくるりの曲。ジンジャーエールを買って飲むという歌詞がある。

*4:笑い飯西田さんの中学イケてない芸人エピソードより。

*5:東京事変「キラーチューン」より。

アイドル的な、あまりにアイドル的な、渋谷すばるさんのこと

渋谷すばるさん36歳のお誕生日、関ジャニ∞デビュー14周年、おめでとうございます。

最近の雑誌で読んだすばるくんのアイドルに関する発言と、彼が作った「コーヒーブレイク」に心を打たれたので、私が関ジャニ∞のファンになる前のすばるくんのイメージと、今のすばるくんに対する思いを書いてみたい。

 

  

 そーでもない第一印象

関ジャニ∞にいるビブラートのすごい人」という漠然とした認識が、「坊主にヒゲの渋谷すばる」と一致したのは、2014年夏のLIVE MONSTERだったと思う。ちょうど10周年の露出ラッシュであり、テレビで関ジャニ∞を目にすることが増え、なんとなく好感を抱いていたところだった。しかし当時は、すばるくんのワイルドな外見と眉間にしわを寄せた表情が怖かった。ギラギラしていて、世間の関ジャニ∞に対するお笑いイメージに反抗するような、「俺は歌だけでええねん」と言わんばかりの殺気を放っているような気がした(※個人の感想です)。歌が上手い、でも歌なら歌手やバンドでやってもいいのに、なんでこの人はジャニーズをやっているのかな……と思っていた。

 

しばらくして、よりシャープな坊主頭でソロ活動をするすばるくんを目にする。相変わらず歌が上手い。かっこいいが少し怖い。この頃、すばるくんの「関ジャニ∞ってアイドルやってます」という宣言を聞いたように記憶している。今思えば、関ジャニ∞というホームあってのソロであり、アイドルファン以外を関ジャニ∞に誘い込むきっかけになるように、という意図だったのだろう。だが、「リアルを伝えるアイドルがいてもいいと思う」発言とあいまって、これはアイドルをナメている人たちへの宣戦布告であり、この人は既存のアイドルの概念を壊したがっているアウトローなのだなという印象を受けた(※個人の感想です)。

 

しかし、お気づきのように、なんだかんだですばるくんの露出と発言を追っているあたり、この時点で関ジャニ∞がかなり気になっていた。そしてクロニクルで彼らの面白さに気付き、私かなり関ジャニ∞が好きかもしれない……と思っていたところで、決定打となったのが関ジャムである。ブラジャーを抱えながら、ゴールデンボンバーなどのみなさんと「女々しくて」を歌うすばるくんを見て、雷に打たれたように「買う!関ジャニ∞のDVD買う!!」と決心する。よりによってなぜこの曲だったのかわからないが、カメラに噛みつくように歌うすばるくんには、それまでのイメージをねじ伏せて、「好き!!」に針が振り切れるような、迫力とかっこよさがあった。

 

そして私は沼に転げ落ち、すばるくんに抱いていたイメージは粉々にぶち壊されるのである。

 

そんなイメージじゃないけどな

すばるくんは天才的に面白い。関ジャニ∞のお笑い担当は、横山くん、村上くん、丸山くんなのかな~と思っていた私は浅はかだった(ちなみにイケメン担当だと思っていた大倉くんのお笑いセンスにも度肝を抜かれた。)。

 

すばるくんは言葉の選び方や間の取り方が上手く、すべり知らずである。巧妙な切り返しができる瞬発力があるし、話の緩急の付け方が上手くてエピソードトークも素晴らしい。ギリギリなのに決してテレビ的なアウトのラインを超えないチョイスで、下ネタも不快にさせない師匠の技量がある。モノボケのクオリティもクロニクルで証明済みである。そして関西弁特有の、言い方で笑いにもっていく力技もしれっとやってのける。

関西出身の人たちは、半ドンの土曜に吉本新喜劇を見ながらお好み焼きを食べてお笑いのセオリーを学ぶという、英才教育を受けてきた人たちであるが、それにしてもすばるくんのお笑いセンスは突出している。発言のテンポやタイミング、ニュアンスが絶妙で、モノマネも得意であるあたり、彼の面白さは音楽センスの賜物ではないかと思う。

さらに、素人の方に対しては、偉人の末裔おじさんに鋭くつっこむ時もあれば、バンドファンの女の子をニコニコしながら「ええキャラやわ~」と評したりする。相手に愛と関心をもって、誰もサゲない笑いができる。ダイバーシティ時代のバラエティアイドルであると思う。 

 

すばるくんはメンバーが大好きである。一匹狼タイプなのかと思っていたのに、たまに驚くほどにストレートにメンバー愛を表現する。印象的だったのは、男気対決のユニット分けである。企画者であるすばるくんが3:3に分かれたユニットのどちらに加入するかという場面で、当然に選ぶ権利を行使するのかと思いきや、彼は「選ばれへん、みんな好きやもん……」と弱々しくごねるのである。初めて見たときは、長髪にヒゲ、素肌に革ジャンという世紀末な風貌と、発言の可愛さの激しいギャップに、気圧の谷が発生して大気が不安定になったような気がした。

 

また、「コーヒーブレイク」にもメンバー愛が表れている。この曲は、CDの発売前にスバラジで一部が解禁されている。恋人への想いを歌ったほのぼの日常系リア恋ソング?いや、コーヒーを恋人にたとえている?とにかくCDが待ち遠しい!とタイムラインが沸き立っていた。

そしてCDを購入し、歌詞と「作詞作曲 渋谷すばる」というクレジットを目にして期待が高まったところで、いざフルで聴くと「コーヒーが飲めない錦戸くんをコーヒー大好きおじさん6人が取り囲む歌」であることが判明する。まるで叙述トリックだった。すばるくんの音楽・お笑いセンスがいかんなく発揮されていて、巧妙な演出と、大人のユーモアに感服する思いだった。丸山くん作の「ふわふわポムポム」に並ぶようなクセになるサウンドで、リア恋ソングに夢を見たおたくたちは一転、カフェイン中毒者のごとく繰り返しこの曲を摂取したことと思う。

 

メンバー愛の話に戻ると、すばるくんが、錦戸くん主演ドラマ主題歌のカップリング曲として制作したというのがグッとくる。あいつだけコーヒー飲めへんぞ!歌にしたろ!という発想が、もう、めちゃくちゃに可愛い。そもそもコーヒーが飲めない錦戸くんが可愛い。すばるくんのデモ音源を聞いたときの錦戸くん(強火すばる担)やメンバーのリアクションやレコーディング風景をミセテクレ。ハァ〜〜可愛い。しかしそうやってニヤニヤしながら聴いていたはずが、だんだんと、この先もずっと一緒に仲良くふざけながら楽しくやってほしい、と重いことを考え始めるのがおたくの性である。(ずっと一緒……ずっと一緒……)

 

すばるくんの歌はすごい。単純に「上手い」という言葉だけでは、すばるくんの歌の魅力は表しきれない。関ジャムのエグゼクティブプロデューサーである山本たかおさんのすばるくん評を読んで、まさにその通りであると思った。

「音域が広いとかピッチが狂わないとか、もっとそういうもの以前の、心震わす魂、存在感、声、ですよね。それがライブステージでは何倍も大きく見えて、圧倒的な存在感を見せる」*1

さらに、すばるくんの歌の魅力を表現する方法を探して本を読んでいたところ、次の記述に行きついた。

「音楽は、生きることに伴う苦悩も含めて『生』を肯定して励ますものであり、他の造形芸術と異なり、形を介さず世界の本質(『生』への意志)を直接心臓に叩き込むことができる唯一の芸術」*2

見つけた時には、興奮のあまり「すばるくんのことやんけ!!」と叫んでKindleを叩き割るところだった。自作曲「生きる」で、「何もなくたっていいから 誰でもない あなたを生きて」と歌うすばるくんが、音楽の本質を体現していることに気付かされた。

すばるくんは、華奢な体で、女児のような尻と脚で、真正面から音楽と受け手に向き合って、混沌の中からエネルギーの塊を取り出し、増幅させ、全身から放つように歌う。放たれた歌声は空気を震わせながら、矢のごとく降り注いで、聴く人間の心臓を突き刺すような感じがする。唯一無二の歌声、天性の才能、音楽の神様に愛された存在。というか、すばるくん自身がほとんど神である。

 

これからも段々君が素晴らしくなる

そんな魅力あふれるすばるくんだが、2016年から2017年にかけて、さらに変わってきた気がする。なんというか、野生的な感じが和らいで、マイルドになったような、若返ったような、すっきりと解脱したような。いつ変化したのかはよくわからない。あるいは、私が関ジャニ∞のファンになって外から関ジャニ∞見れなくなったからからそう感じるだけであって、すばるくんの中では何も変わってないのかもしれない。どちらにしても、私にとってはどうでもいいことだった。重要なのは、今のすばるくんが、あまりにアイドル的な存在であるという事実なのだ(思わず村上春樹調になってしまった。)。

 

すばるくんは「ダンス居残り組」であったはずなのに、「Black of Night」では、キレキレに踊っていることに驚いた。ジャムコンオーラスでは、Jr.かと思うほどの全力しゃかりきダンスを披露していたとの目撃談があった。

さらに、2016年夏頃、髪を切ったあたりから、ビジュアルに関してもパワーアップしたような気がする。前髪重めで襟足すっきりの髪型は、頭の丸みと目力が強調されていて実に素晴らしい。重力を受け入れながら、年齢重ねることを強みに変えて、元々の素材を活かした強い強いビジュアルに仕上げてきている。

メンチは切るけれど、正統派アイドル的なカメラアピールを避けてきたようにみえたすばるくんだが、NOROSHI以降、絶妙な角度でキメ顔を披露し、おたくを困惑と歓喜の渦に突き落とす。エイタメコンにおいては、角度+流し目+ウィンクの三位一体攻撃でドームの女を絶叫させた実績がある。

一方で、幼稚園児のようなピカピカの可愛さを持ち合わせている。一般的な35歳男性には到底真似できない無邪気なダブルピース姿は、思わず「すばちゃん」と呼びたくなるほどの可愛さである。夜10時を過ぎると眠たくなり、ちっちゃい声で「忙しいねん……」とつぶやくおじいちゃんのような一面は、ひたすらに愛おしく、健康で長生きしてほしいと願わずにはいられない。

また、ファンを楽しませたい、こんなん見たいんちゃうかな?というエンターテイナーの精神は、特典映像「7人だけの新年会」の企画や、三馬鹿*3ユニット曲の「Answer」、前述の「コーヒーブレイク」に顕著である。

 

すばるくんは間違いなく関ジャニ∞の音楽を牽引する存在だが、彼だけが突出しているような感じはしない。完全に感覚の話になってしまうが、今のすばるくんの歌は、関ジャニ∞と調和している気がする。全員が音を楽しんでいるようで、7人が奏でる音楽が重なり合って、総体としてパワーを持っているような感じがする。 

 

音楽ファンで埋め尽くされたメトロックにおいて、すばるくんは「関ジャニ∞ってアイドルやってます」と言った。ソロの時と同じ言葉でも、受ける印象がかなり違う。「何をやっても、その道1本でやってる人にはかなわない」*4と言いながら、アイドルであることを免罪符にするのではない。

「アイドルって、そこに浸かっていようと思ったらそんな楽なことないと思うんです。抜け出して一個上に行こうと思ったら、ちょっとしんどいけど、それをやったら最強やと思うんですよね。誰もかなわへんと思う、絶対に」*5

という発言から感じるのは、アイドルを引き受けた覚悟だ。歌も、バンドも、ダンスも、バラエティも、芝居も、全部やる。かっこよさも可愛さも自覚して、武器にする。もはや全方位死角なしアイドルである。

それでいて、まだどこか余裕があるようで、とても自然体でいるように見える。すばるくんは、ほぼ神様だが、畏怖の対象である偉大な神ではなく、みんなに愛される身近な神様ではないかと思う。なんとなく、「小僧の神様」という言葉が似合う。*6

 

並ならぬ涙の賜物

そして、アイドル「なのに」ではなく、アイドルだからこそできることがある。

「売れない時代からずっと、うれしいことも悔しいこともすべて共有してきているから、メンバーが今どんな気持ちか音を聞けばわかる。それは、バンドマンや音楽をやっている人たちには、絶対に出せないグルーヴやと思う。関ジャニ∞の楽曲が面白いのって、そこじゃないかな」*7

20年以上やっているバンドはたくさんいるが、20年以上兄弟や家族のように苦楽を共にし、ダンスもバラエティも一緒にやって、全員がボーカルをとる、自分たちの見せ方を知っている、こんなに顔面偏差値の高いバンドは他にない。

メトロックで丸山くんがベースプレイのタイミングを間違えた際、大倉くんと安田くんはさも予定通りかのようにセッションに加わった。錦戸くんは(苦手なはずの)トークでフォローし、すばるくんは「面白いから後でもっかい同じ事やれ」とアドバイスして、ハプニングを笑いと盛り上がりに変えた。この瞬時の判断と、互いに補うあう感じが、彼らのグルーヴの表れではないかと思う。そして彼らの絆と、物語性の上に乗る音楽は、ファン以外も魅了しはじめている。それでいて、音楽は彼らの武器のひとつに過ぎないのである。

 

私はすばるくんが「チョンッチョンに尖っていた(本人談)」頃や、Jr.時代から組んでいた関ジャニ∞とは別のバンドのことや、危うさをはらんだ美しさとカリスマ性で人を惹きつけていた頃を知らない。紆余曲折を経て、それでもアイドルでいてくれるのが、本当にありがたいと思う。大人で、自然体で、アイドルとして高みを目指す今のすばるくんがとても好きだ。

 

すばるくんは天才だと思う。神様だと思う。それでいてすばるくんは、電動自転車でふらりと新宿に行く身近さ、しゃがんで子どもの目線に合わせて優しく語り掛ける父性、長年の知り合いかのように自然におじいちゃんに絡む人懐っこさを兼ね備えている。ここで思い出すのは、安田くんが雑誌で語っていたアイドル論である。

「夢を見てもらうべき時はスター性を出し、そうでない時は等身大で居る。アイドルの真髄は、見る側の欲望に対する順応性に長けていること」 *8

アイドルなのにアウトロー感にあふれていたすばるくんは、誰よりもアイドルなのだった。

 

歌番組でも、雑誌でも、ネットでも、関ジャニ∞はどこを目指しているのか?彼らにとってバンドはどのような位置づけなのか?という問いをたくさん目にした。私も分析・考察したがるタイプのおたくである。しかし、答えはとてもわかりやすい形で、以前からもう何度も見ていたような気がする。私があれこれと考えを巡らせた結果、思い出したのは、「ジャニーズ・エンターテイメント」と挑発的につぶやく、カメラ目線のイケメンすばるくんなのである。

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*1:「別冊+act.」 Vol.24より。

*2:竹田青嗣ニーチェ入門」より、抜粋しつつ私がニュアンスでまとめている。

*3:横山くん、すばるくん、村上くんの同い年トリオを指す言葉。とにかく尊い

*4:ジャムコンパンフレットより。

*5:「MUSIC MAGAZINE」2017年9月号より。

*6:志賀直哉の小説は「小僧の姿をした神様」の意ではないけど。

*7:ジャムコンパンフレットより。

*8:「TV GUIDE Alpha Episode E」より。

横から見たan・anとジャムコンと関ジャニ∞の今/「担当」をめぐるあれこれ

関ジャニ’Sエイターテインメント ジャムのネタバレをしています。
※担降りブログではないつもりですが、担降りについて話をしています。

 

思いがけずブリュレ ― an・anの話

横山くんがしんどい。きっかけはドラマONの東海林先輩で、そのくだりはジレッタの感想に書いたのだけど、ジレッタも、俺の好みのYouとYouも、幼児のような笑顔でバッタとちょうちょを追いかけるのも、だいぶしんどいなあと思いながら見ていた。

ここでいう「しんどい」は、ほぼ「好き」と同義だが、想像を超える振れ幅に翻弄されてどうしていいかわからない、底知れない魅力が逆に怖い、顔がかっこいい、といった感情がごちゃ混ぜになって、うまく言葉にできないような感じである。 

 

そしてan・anである。関ジャニ∞全員で表紙を飾るメンノンの発売直前、おたくの虚を突くように報じられた、an・anセックス特集、セクシーグラビア12ページ。最初こそ「シャツのボタンをきっちり止めておリボンをつけている横山くんが好きなんだ!ハダカとか女性とのカラミとかそんなわかりやすいものに屈しないぞ!」と思ったものの、ジャニオタの方々の情報(ツイッター)により、横山くんが以前ラジオで「an・anで脱ぎたい(オファーがきたら鍛える)」と語っていたことを知る。数年越しに有言実行する横山くん、かっこいい。というかそもそも買わない選択肢がない。この時、マガジンハウス様の靴が眼前にあれば舐めていたと思う。 

 

an・anはいざ蓋を開けてみると、横山くんもお相手の女性もひたすらに美しく、生々しさがなく、エロいというより耽美的で上品だった。美形度がある一点を突破すると、急にエロさを失う法則(エロさの谷)があるのではないかと思った。

だが、見開きのページ、女性の背中越しにこちらを向く横山くんに、覗き見してしまったような気持ちになって手が止まった。思いがけずブリュレ。憂いを帯びているようで、何の感情も込められていないような目線。なんという表情をするのだ。しんどい。服を着てほしい。これが、女性タレントと見つめ合うだけで汗だくで真っ赤になるシャイな横山くんなのか?

時間を置いてもう一度見てみると、全体的にしんどかった。伏せたまつげとまぶたの陰影が、ほぼ絵画だ。顔がかっこいい。手が綺麗。しんどい。相手の女性に嫉妬するとか、自分に置き換えるとか、あらぬ妄想をするとかではないが、なんだか気持ちがザワザワした。

 

その一方で、何をきっかけに横山くんが抜擢されたのか知りたいと思った。これまでにan・anセックス特集の表紙を飾ったジャニーズタレントは、当時22歳~26歳。対して、横山くんは36歳だ。顔の良い男性たちが勢揃いした事務所で、売り出し中で勢いのある若い子でも、アニバーサリーイヤーのグループでも、大きな仕事が控えている人でも、王道のセックスシンボルでもなく、横山くんのバラエティでのイメージからすれば、意外ともいえる人選ではないか。

幸いにも、私が参加する関ジャニ∞のコンサート(通称「ジャムコン」)が数日後に迫っていた。an・anが発表・発売されてから初めての公演であり、MCでこの話題が出ることは確実と思われた。

 

夏の俺らは ほら罪なのさ ― ジャムコンの話

そしてジャムコンである。プラチナブロンドに近い金髪で襟足刈り上げという、二次元ビジュアルで登場した爆イケ大倉くんは、MCにおいても信頼と実績の大倉くんだった。「今日近所のセブンイレブンで買った」というan・anを持参したのである。ウチの最年少は仕事ができる。

その中で、an・anのきっかけは、エイタメコンのオープニングムービー(錦戸くん監修)で横山くんが扮したインテリヤクザであると判明した。ジャニーズのコンサートで「インテリヤクザのセックス」というパワーワードが爆誕した瞬間だった。

 

青天の霹靂。草上の朝食*1。東海林先輩でも門前さんでもなく、「ハダカ」の衣装*2でもなく、インテリヤクザとは想像の斜め上だった。ビーナスの誕生は(建前上)エロくないが、裸婦の隣に着衣の男性が座るとエロである。美しい男女の映画のような逢瀬はエロくないが、インテリヤクザのセックスというストーリー性*3が加わると、それはもうエロである。

勘弁してくれ。私は歯を食いしばり、いちご棒(ペンライト)を握りしめて耐えた。メンバーが喜々としていじる中、横山くんは、ヤイヤイ反論するのではないが、汗だくでソワソワしながらも「(大倉くんが)買ってくれたのは嬉しい」と言っていた。一方、「次号の表紙はシークレット」という予告記事を見て、「俺!俺!」とほくそ笑んだという横山くんは、めちゃくちゃ横山くんだった。

 

迫力と男気のあふれるバンドスタイルの前半から一転、後半は30代男性の色気と可愛さがフュージョンしたアイドルステージだった。夏のドームを揺らす「JAM LADY」「罪と夏」にひたすら歓声をあげ、「かっこいい」以外の語彙を失った。このときの偏差値は30くらいだったと思う*4

そして「レタスの妖精」「バッタ」等の前評判があった黄緑の衣装は、みなフワフワしてファンシーだと思った。ところが、ジャケット(レタスの外の葉)を脱ぐと、ノースリーブだった。首元が詰まっているのにノースリーブ。二の腕が白い。服を着ているのに、異常にセクシーだった。an・anを見て、服を着てくれと思った私は間違っていたと思った。

 

他にも、水のアーチがかかる花道で、噴水と噴水の間にひとり真顔でスッと入ってみる様子や、アンコール前のハケ際、みながキメ顔を披露したりサービス満点の笑顔を振りまいているのに、照れているのか、ペコリとお辞儀をする姿がしんどかった。そして極め付け、純情恋花火の間奏中、バックについていた関西ジュニアを真似て盆踊り的な振りを始める浴衣姿のメンバー。横山くんは……踊らない!!横目でチラチラ見てるのに!!!あ~~~そういうとこ……そういうとこ……(フェードアウト)

 

俺の好みのYouとYou ― 担降り問題

もうどうしていいかわからなかった。白くて美しくて眩しくて、本来なら日食のメガネで見なければいけないような人を、双眼鏡で見てしまった。しんどいがピークに達していた。

 

ジャニオタが、一番好きなジャニーズ(=「担当」)の他に、気になるジャニーズの方が浮上し、一番の地位が揺らぎそうになった場合に直面する問題が「担降り」である。もちろんファンのあり方も様々で、複数のグループのファンでありそれぞれに担当がいる「掛け持ち」も、グループ全員が好きな「箱推し」も、広くジャニーズを愛す「事務所担」もいて、どれが良いとか悪いとかの問題ではないと思う。

しかし「担降り」は、ときに棄教レベルの葛藤と決心を伴う。担降りするとかしないとか、どのようなスタンスでジャニーズを応援するかは、ほとんど自分の中だけの問題であるのに、自意識をこじらせたジャニオタは、どうしても思い悩んでしまいがちだと思う。

私も例にもれず、安田くんが好きだと思っていたのに自分はどうしてこんなにミーハーなのか、関ジャニ∞を好きになったのすらここ数年の新規なのに、いや安田くんは好きだけど横山くんがしんどい、仮に担降りしたとして過去のレコメンを全部聞くような覚悟があるか、こんなにフラフラしていては他の安田担にも横山担にも不誠実ではないか、滝に打たれた方がいい、もしくは今すぐ懺悔室に駆け込みたい、と散々に悩んだ。

 

だが、ある時ふと我に返り、「趣味なのにどうして地獄の業火に焼かれるような思いをしなければならないのか?」という当たり前のことに気付いた。私にとって、ジャニーズのみなさんはあくまでエンターテイメントである。生活の一部ではあるが、全部ではない。現ありきの夢なのである。義務感を感じる必要はない。

私はメンバー個人だけではなくて、彼らの関係性と、仲の良さと、団体芸と、一蓮托生感が好きだ。というか、みんなおそろしくかっこよくて、知れば知るほど魅力的だ。しばらくして他のメンバーに熱を上げる可能性も否定できない。コンサートなど、「心変わりの相手は僕に決めなよ」*5と言いながらキメキメで歌い踊っているに等しい。「DO NA I」も、まさにそんな歌である。

なんか、担当とか決めなくてもよくないコレ?コレよくない?よくなくなくなくなく\セイ イエーッ!!/

……

ジャニーズ特有の担当文化は面白いと思っているし、好きだが、今の自分をどう当てはめていいかわからなくなって、担当について考えるのを諦めてしまった。ただし、義務感を負わず、かつ後ろ指をさされないファンでいるために、

  1. 楽しく、謙虚に、愚痴を言わず、身の丈に合ったファン活動をする。
  2. 時間やお金などのリソースは有限だから、メディアへの露出は、無理なくチェックできるだけにする。
  3. ファンクラブやCDリリースなど、要所で金は出す。
  4. 今を追いかけるのだけでも楽しくて忙しいから、過去を遡るのは義務としてではなく、興味が湧いたときにする。

ということに決めた。

体感的には滝まで行って戻ってきたのだが、ここまですべて自分の中で発生して収束した出来事であり、着地点は「関ジャニ∞のファン」というごくごく普通のものだった。とても不毛である。しかし、整理できたことでかなり楽になった。「劣等感 カテゴライズ そういうの 忘れてみましょう」という林檎さんの歌詞を思い出した。

 

乱気流を超えて行くんだ ― 横山くんと関ジャニ∞の今

他のジャニーズグループの担当や、非ジャニオタの友人知人が「関ジャニ∞なら横山くんが好き」と言っている。東海林先輩出の横山担*6も多い。舞台ファン、ロックファンがその麗しさに感嘆しているツイートをいくつも見た。横山くんの美しさに惹かれて関ジャニ∞に興味を持ったフォロワーさんもいる。an・anの話題が他のグループのファンからRTで回ってくる。

なんとなくザワザワしている気がする*7。あくまで私のツイッター周辺なので、サンプルが偏っているのは否めない。しかし、あからさまな「大人の事情」抜きに、横山くんが「紙媒体を売る力のある人」と認識されていることは、横山くんは美しくてバッキバキで進化し続けるゼウスであるという関ジャニ∞ファンの共通認識が、広く知れ渡ることを意味するのではないかと思った。

 

私はこれまで、横山くんは不得意も愛嬌に変えてしまう魅力と愛される才能の持ち主であり、すべてが可愛いに帰結する様が、(誤解を恐れずに言うなら)非常にアイドル的だと思っていた。

そんな人が不得意を努力で埋めていく。コンサートや歌番組では、繊細さと透明感はそのままに、伸びやかで芯のある歌声に聴き入った。ボイトレ効果が顕著だったのが、ジャムコンの「Answer」であり、「A-Studio」で披露した「青春のすべて」だったと思う。

そして、体作り、トランペット、ボイトレなどの努力の集大成がan・anではないかと思っている。トランペットとセクシーグラビアが直接関係あるわけではないが、造形の美しさに加えて、キャリアや努力に裏打ちされた自信がにじみ出ていて、かっこよくて、私はそれに惹き付けられたのだと思う。

かといって、隙がなくなった感じはしない。飲んだあと解散するのが寂しくて、丸山くんと大倉くんに「もう一軒行かへん?」と言ったエピソード、変顔のムチャぶりにすべる姿、卵を割ってドヤる顔。愛される余白はそのままに、努力で押し上げるように魅力を増して、36歳にしてかっこいいをどんどん更新していく。煮詰まった時は「明日できる」と考え、「関ジャニ∞にとって自分を出すことが必要なんだ」*8と気づいた人の明日が、未来がどうなるのか。眩しくて、でも目が離せない。

 

そして、ファン歴の浅い私の主観だが、関ジャニ∞全体も、もうどうしようもなくビンビンきてる感じがする*9(図参照)。グループにおいても、横山くんのan・anはエポックメイキングな存在のひとつだと思う。プレミアムフライデー(国の仕事)も、スパイダーマンホームカミングのアンバサダーと主題歌も、27時間テレビのMCもそうだ。さらに主演ドラマが放送中だし、主演映画だって控えている。それぞれの活躍が、グループの勢いを加速させていく。

また明日起きたら、想像を超えるえげつないニュースが発表されているのではないか。そんな気がして、とにかく毎日が楽しい。

 

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*1:森の中で裸婦と着衣の男性がくつろいでいるインモラルなマネの絵画。

*2:上裸+ピチピチショートパンツ+白靴下+革靴+襟とカフス。

*3:an・an公式によれば、このグラビアのイメージは映画「ターミネーター」とのこと。

*4:関ジャムでの岡崎体育さんの発言「夏うたの偏差値は低め」より。

*5:小沢健二スチャダラパー今夜はブギー・バック」より。

*6:「○○をきっかけに△△さんの担当になった人」のことを「○○出の△△担」と言う。

*7:ここに書いていないだけで、他のメンバーについても同様のことが起きている。たとえば、ジャムコンに参加した嵐担の友人2人は、大倉くんの顔の美しさにボコボコにされていた。

*8:ジャムコンパンフレットより。

*9:安室奈美恵Chase the Chance」より。

その肩幅に夢を託して~舞台「俺節」感想

安田章大さんは身長164.5cmの人の中で一番肩幅が広い*1

安田くん主演の舞台「俺節」を観た。笑って泣いて感情を揺さぶられて、終演後は放心状態だったので、正直なところあまり記憶がない。ツアーMCで「安田の歌かなり上手いです」と自負していたとおり歌はかなり上手かったし、それどころか期待値を軽々と超えてくる熱演だった。ツイッターでは毎日のように各業界のプロが俺節を絶賛するツイートが流れてきて、素晴らしかったことは言うまでもないのだが、イチ安田担として感想をしたためたい。

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 舞台「俺節」のこと

私がTBS赤坂ACTシアター俺節を観たのは、東京公演も終わりに差し掛かった頃だった。席は二階席の後ろから数列目。先般訪れたシアターコクーンとも東京宝塚劇場とも違う、広さと奥行きと急な傾斜に驚いた。こんなに斜め下を見下ろすのは黒部ダム以来だと思った。

 

安田くん演じる主人公のコージ(海鹿耕治)は、「世の中をとっくり返してやる」という志を抱き、演歌歌手を目指して上京する。圧倒的な歌唱力を持つコージだが、あがり症で気弱なせいで、肝心な場面でうまく歌えない。お調子者ながら熱い心を持ったギター弾き・オキナワ(福士誠治さん)と出会い、演歌界の大物・北野波平(西岡德馬さん)に目をかけられ、流しの大野(六角精児さん)*2に弟子入りし、不法滞在のストリッパー・テレサ(シャーロット・ケイト・フォックスさん)と恋に落ちる。やがて、コージとオキナワの活動がプロデューサー戌亥辰巳(中村まことさん)の目に留まり、デビューの話が舞い込む。


ざっくり書くと王道ストーリーのように思えるが、コージはつまずいてばかりいる。夢も友情も恋も、進研ゼミの勧誘漫画のようにはうまくいかない。デビューの条件は、オキナワとコンビではなく、コージひとり。さらに戌亥は自身の恋人であり再起を図る元アイドルの寺泊育代(高田聖子さん)とコージを組ませ、デビュー曲として引越屋のCMソングを与える。
コージとオキナワの根城はドヤ街「みれん横丁」で、横丁の住人は犬の肉を食べ、オキナワはチンピラと紙一重だし、テレサはヤクザの支配下で体を売らされ、踊り子仲間と帰れない故郷を思い、流しの大野はカラオケの普及に押されている。なんともわびしい気持ちになったコトはあるかい?と問いかけてくるような、泥臭くて、もの悲しい、日陰者たちの物語である。性格、才能、出自、時代の流れ、運など、内的・外的要因があわさって、ほとんどの登場人物が地べたに這いつくばるようにして生きている。

だが、みな境遇を嘆くばかりではなく、朗らかにしたたかに生きている。オキナワは憎めないキャラクターで、スキニーでロックなルックスがかっこよかったし*3テレサもたどたどしい日本語がキュートで、踊り子仲間や(本来敵対するはずの)取り調べの刑事からも愛される魅力の持ち主だった。北野の重鎮でありながらコミカルな人柄や、無愛想な大野の面倒見の良い感じ、踊り子のリーダー・マリアン(高田聖子さん)の姉御肌ぶりなど、ベテラン陣の存在も光っていた。


また、悲壮感は笑いでかなり中和されていて、客席は終始笑いに包まれていた。主要三人はもちろん、周囲の異常に濃いキャラクターたちが次々と小ネタを繰り出したかと思えば、セリフの絶妙な間で笑いが生まれるなど*4、動と静、ベタとシュールの笑いの応酬がすさまじかった。
演出で印象に残ったのが、コージとオキナワが大野の下で流しとして経験を積む過程と、コージとテレサの距離が徐々に縮まる過程を、二階建てセットの上と下を使って同時並行でみせる場面。映画「ロッキー」を彷彿とさせるようなダイジェスト具合で、舞台でここまで映像的・漫画的なみせ方ができるのかと驚いた。

 

舞台「上を下へのジレッタ」で横山くんがどこを切り取っても華があったのと対照的に、コージからアイドルのキラキラオーラは感じられなかった。津軽訛りのボサボサ頭の着たきり雀で、へら、と素朴に笑ったり、くしゃしゃな顔で泣いたり、感情を露わにすることもあるが、どこまでも等身大だった*5。舞台上でその他大勢に埋もれる安田くんを見失うこともあった。

周囲の大人たちのセリフは、コージらを優しく力強く導く名言に満ちていて、心に刺さるものがたくさんあった。序盤でハッとさせられたのは、うまく歌えないコージを「生きているだけで恥ずかしいんだよなぁ」と評したみれん横丁の仲間の発言。恥の多い人生を送ってきました。そういえば太宰治もコージと同じ津軽の出身だった。同様に大野も「お前、生きづらいだろう」とコージに問いかける。これは舞台「俺節」のテーマのひとつで、俺節は生きづらい者たちの物語であり、生きづらい者たちへのメッセージではないかと思った。特にコージにおいては、生きづらさの原因は自己肯定感の低さにあるような気がした。

そんなコージがひとたび歌い始めると、空気が色を変える。普段は緊張して歌えないのに、どうしても伝えたい思いがあふれたとき、歌に乗って噴き出して、周囲を圧倒する。コージの歌は乱暴なまでの説得力をもって、聴く者の心を揺さぶり、物語を展開させる*6なお、俺節において一番コージの歌にほだされがちなのは、ヤクザたちである。


一幕の最後、コージがヤクザたちからテレサを奪還し、ふたり手をつなぎ正面を向いて歌うシーンでは、それまでの冴えないコージとは打って変わって、背筋が伸びて目に強い光が宿っていた。精悍な顔つきに、夢も、仲間も、恋人も、すべて背負うという決意が表れていて、とても童貞とは思えなかった。

しかし前述のとおり、デビューに際してオキナワはコージと袂を分かつ。さらに自分がコージの重荷になっていることに気付いたテレサは、不法滞在の罪を警察に自首し、コージの元を離れる。腹をくくったコージは育代とデビュー寸前まで漕ぎつけるも、育代のヘアヌード写真集を企画するスポンサーに空気を読まずマジギレしてしまい、デビューは破談となる。頑固でまっすぐなコージには、業界で生き抜くための、清濁併せ呑むようなしたたかさが足りない。裏を返せば、戌亥が言うところの「隙がある」というコージの魅力なのだが、結果的に自分のみならず戌亥と育代のチャンスを潰してしまう*7

 

コージと別れたあとやさぐれたオキナワは、色々あって北野宅の座敷牢に閉じ込められるが、持て余した時間で自分と向き合い、曲を作る。北野に鼓舞され改心したオキナワは、みれん横丁に戻り、歌うことを諦めたコージにまた一緒に歌おうと誘いかける。拒否したコージだが、戌亥から予定していた仕事を穴埋めするよう指示され、ひとりステージに立つ。

アイドルユニットの前座として、アイドルファン(というかほぼジャニオタ)たちに囲まれた完全アウェイで、無難に上手いが全然心に響かない歌を披露する。そこへ強制送還目前のテレサと踊り子仲間、オキナワが登場する。「さっきの歌、全然よくなかった」とテレサに痛烈に指摘されるも、「私とコージで私だから」という言葉を聞いたコージは、それが奇しくもオキナワに託された曲の歌詞と同じであると気づく*8

 

俺節という人間讃歌

俺節の概要を知ったとき、安田担のみならず、関ジャニ∞ファンは「福士さんがギター弾きの役なんだ。ヤスくんはギターを弾かないのか」と少なからず残念に思ったのではないだろうか。もちろん福士さんのギターは重要な役割を果たしていて、私もコージとオキナワのコンビに愛着を持っていたのだが、ここでその諦めに似た思いが、完全に覆される。

コージはオキナワから受け取ったギターを弾き、ひとりで「俺節」を歌う。ヤスくんがギターを弾く。コージがギターを弾いて歌う。頭が真っ白になって、興奮で手が震え、涙がとめどなくあふれてきた。土砂降りの中*9、命を削り魂を燃やして歌うコージの、ほとばしるような歌声が劇場全体を満たし、空気をビリビリと震わせているようだった。振動が観客の熱を受けて増幅し、それに共鳴するように心が震えて、私はただただ泣きながら、歌うコージを見つめていた。

 

あとで冷静になって考えれば、オキナワ、ギター弾かへんのか~い!コージめちゃくちゃギター上手いやないか~い!*10という展開なのだが、とにかく理屈ではなくて、役者の力、歌の力、舞台の力が相乗した極致と言いたくなるような感動があり、コージの歌が観客全員に降り注いで、痛いくらいに沁み込んでいたと思う。

コージがギターを弾くという安田担的なエモさだけで涙したのではない。たしかにコージはひとりで舞台に立っていたが、ひとりではなかった。「俺とお前で俺」という歌詞のとおり、ずっとひとりで全てを背負おうとして押しつぶされてしまったコージを、オキナワが、テレサが、一緒に背負って立っていた。コージが自分でギターを弾いたのは、ふたりから受け取った気づきをもって、自分の中で確実な「答え」を出すための通過儀礼だったのではないだろうか。また、コージの熱唱を見届けたテレサは帰国してしまうが、離れていても「俺とお前で俺」であることに気付いた二人にとっては、決して悲しいばかりの別れではないという気がした。

 

ステージを見ていたみれん横丁の仲間たちの期待に反して、翌日の新聞にコージのことは全く載っていなかった。物語は、横丁の仲間たちが、照れながらも少し誇らしげなコージとオキナワを称える場面で幕を閉じる。コージは世の中をとっくり返すことはできなかったが、彼の歌は、半径5メートルくらいの人々(もしかしたら、最初ブーイングしていたアイドルファンたちにも)には確実に響いていた。彼がひとりではないということを実感し、自己肯定感を得ることができたという意味で、私にとってはハッピーエンドだった。

そして、失敗して何もかも失って自暴自棄になっても、歌うこと、演奏すること、音楽を作ることをやめられなかったコージとオキナワは、根っからの表現者だった。暴力にも、貧困にも、運にも、何人にも奪えなかった彼らの聖域が、歌で表現することだったのだと思う。その聖域を持ち続ける限り、コージとオキナワの夢は続いていくはずだ。たとえ今後、今以上に絶望的な状況でいよいよ夢が絶たれたとしても、歌は彼らの生きる希望であり続けると思う。

何かに似ていると評するのは野暮だと思うが、クライマックスの場面は「生きづらい人間がステージに立ち、音楽を奏で、聴く耳を持たない人もいたが、届く人には確実に届いていた」という点で、ドラマ「カルテット」の最終話を彷彿とさせる。カルテットが過去を肯定し未来を優しく照らす物語であったのに対し、俺節は転んでも立ち上がることができる力の源を見つける物語だったような気がする。どちらも、生きづらい者に向けた、とても美しい人間賛歌だった。

カーテンコールで安田くんは真ん中に立ち、割れんばかりの拍手を浴びて、清々しい顔で微笑んでいた。人情と悲哀に満ちた泣き笑いの3時間半を終え、ようやくアイドルの安田くんを見たという気がして、また泣けた。

 

器用で不器用な男

安田くんがレギュラー仕事を抱えながら、すさまじい熱量で一日二公演をこなすことができるのも、最高のカンパニーが共に背負っているからであり、そしてここにいない関ジャニ∞のメンバーも同様に背負っているのだろうと思った。

安田くんは多面的な人だと思う。芸術家肌で感性の人でありながら、自分やグループを冷静に客観視している。海のように広く深い優しさを見せるが、冷たい目で正論を吐き捨てる時もある。女子力の高いおしゃれなヤスくんでありながら、尼崎の男・オス安田でもある。外見や役に寄せていく傾向がある*11ような気がしていて、丸山くんが「章ちゃんはブレブレな人」と評したのはまさにその通りだと思う。その切り替えが上手くできないこと等を「不器用」だと自己評価しているところ*12が、隙があって魅力的だ。

一方で、自分がアイドルであることと、ファンがアイドルに求めていることにとても自覚的であるから、ファンの予想をいい意味で裏切りこそすれ、決して絶望させはしないだろうという安心感がある。さらには何でもこなせるオールラウンダーであり、才能あふれるソングライターでもあり、まだまだ隠し玉を持っているような底知れなさがある。安田くんの多面性に翻弄され、活躍を目にするたびに新たな魅力に気づいて、ますます沼にはまっていく。

俺節は、脚本・演出の福原充則さんが、映画「ばしゃ馬さんとビッグマウス」で天童義美を演じていた安田くんを見てコージにキャスティングしたという。「ばしゃ馬さん」の吉田恵輔監督は、たまたまテレビで安田くんを目にして「天童、いた!」とオファーしたらしい。俺節で安田くんは誰に見つかって、次にどんな安田くんが見れるのか、楽しみで仕方がない。

 

世界中の夢 背負う群れ

「客は歌い手の中に自分を見る」という北野のセリフを借り、俺節を観て自分を振り返った話をしたい。私は職業として文章を書く人になりたかった。自己のセンスとスキルと知識によって、読み手の心を動かす文章を書けたらいいなと憧れていた。コージと同じく話すのが苦手で、自分の考えは文章で表す方が好きだった。しかしコージほどの才能もなく努力もせず、ちょうど「ばしゃ馬さん」の天童のように、ただ根拠のない選民意識を持っていた。結局、人生を賭ける度胸もなくて、行動を起こすことなくただ平凡な会社員に収まった。

だが、ジャニーズを中心としたエンターテイメントの話をブログに書き始めると、次第に私の文章を読んで、「コンサートの感動がよみがえった」「関ジャニ∞に興味が湧いた」「アイドルが尊くて泣ける」「七海ひろきさんを応援したい」「クレイジーケンバンドってイイネ」等の感想をもらえるようになった。その共感や反応が想像以上に嬉しく、アイドルのおかげで、自分の文章を通じて読み手の心を動かすという、かつての夢がささやかながら叶ったような気がしている。

 

また、大人になってからアイドルにハマる理由のひとつは、仕事も家庭も落ち着いて、現実と自分の力量の差を知ったものの、特別な存在になりたいという欲望や諦めきれない夢を、彼らに託しているからだという気がしている。

おこがましいのは承知の上だが、関ジャニ∞の活躍や彼らに対する称賛が、自分のことのように嬉しく誇らしい。メトロックでのパフォーマンスの様子や非ジャニオタであるロックファンの感想をツイッターで見て、関ジャニ∞のファンでよかったと思って泣いた。俺節で安田くんの熱演を見て、舞台のプロたちの絶賛を知って、安田くんを好きでよかったと思って泣いた。CD特典映像の新年会で、現状を打破してさらに上を目指すという意気込みを語る彼らを見たのち、アルバム「ジャム」を中心としたブレイクの機運を肌で感じて、感慨深くて心が震えた。

 

さらに、私たちは落ち込んだとき、やりきれないとき、押しつぶされそうなとき、あたかも「俺(ファン)とお前(アイドル)で俺」であるかのように、アイドルの存在や作品によって負担を軽減し、力をもらうことができる。挑戦する姿に勇気をもらい、仲良くキャッキャする様子に癒され、お昼休みに丸山くんの日記*13に励まされ、会社帰りにコンビニでアルバムを受け取るために仕事を乗り切る。

大勢のファンの様々な思いを彼らはまるっと背負って、なんでもないような笑顔で、未来に目を向け、息をするように希望を振りまき、ぴかぴかと輝きながらステージに立っている。

 

私の好きなアイドル安田章大さんは、身長164.5cmの人の中で一番肩幅が広い。

  

*1:安田くんの自称。過去の雑誌インタビューより。

*2:個人的に、鉄オタ予備軍の子どもの要望で、タモリ倶楽部で自作の京都鉄道博物館の歌を弾き語る六角さんの映像を繰り返し見ているので、六角さんの生歌生ギターは感無量だった。

*3:福士誠治さんがめちゃくちゃかっこよかった。あっさりした顔の男前。

*4:テレサを取り調べる刑事の「……千昌夫か」がよかった。

*5:ただし顔は可愛い。

*6:安田くんは熱量の調節が上手く、緊張している時、そこそこ上手い時、本気の時の演じ分け(歌い分け)が素晴らしかった。

*7:この時点で、コージは育代とデュエットでありながら完全に「ひとり」だった。それに対し、なりふり構わず夢を追う戌亥と育代は、後述の「俺とお前で俺」という運命共同体の象徴のように感じた。

*8:この辺がクライマックスでとてもドラマチックなのだが、泣きまくっていたので詳細を覚えておらず、描写がめちゃくちゃ雑になってしまっている。無念。

*9:舞台でここまで降らすのかと驚くほどの、黒部ダム級の水量だった。

*10:同時期に舞台「蜘蛛女のキス」に主演し、役作りのために髭を生やしていた大倉くんは、「関ジャニ∞クロニクル」においてすばるくんに「髭男爵」といじられていた。

*11:オールバックでスカジャンの時はオラオラしているし、今のビジュアルだとテレビ番組でもコージにしか見えない。

*12:時々日本語がおかしいときがあって、そこも好きなのだが、テレビガイドアルファで「(言葉より)描いた絵や作った曲に触れてくれた誰かが、好き勝手に汲み取って共鳴してくれる、その感情が一番大事」と語っていた。

*13:ジャニーズウェブで連載されている丸山くんの日記「丸の大切な日」。驚きの毎日更新。

ジャニオタが観たタカラヅカ~星組 スカーレット・ピンパーネル感想

初めて生でタカラヅカを観た。宝塚星組公演 スカーレット・ピンパーネルの感想に加え、舞台に立つ誰かを応援することについて書きたい。

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はじめにー観劇までの経緯

私には友人がいる。彼女は母娘二代でタカラヅカファンであり、人生の半分近くをタカラヅカと共に過ごしてきた生粋のヅカオタである。我々は去年の夏頃から、異文化交流会と称してタカラヅカとジャニーズを布教しあい、公演やコンサートの映像を観て日頃の憂さを晴らす会を開いてきた。友人はめちゃくちゃに仕事ができる女であり、初回は「タカラヅカのご紹介」と冠した自作のパワーポイント資料(20ページ)を引っ提げてカラオケパセラに現れた。スターシステム等のタカラヅカの基礎から、各組スターの学年表、ご贔屓*1のスターさんの紹介など、初心者に優しい内容ながらタカラヅカへの愛とパッションがあふれ出ていて、タダでもらうのが申し訳ないほどのクオリティだった。

 そして2012年宙組公演「銀河英雄伝説@TAKARAZUKA」を彼女の解説付きで見せてもらった。初めてちゃんと観るタカラヅカのみなさん*2は、ぴかぴかと美しくきらびやかで、おそろしく脚が長かった。

 

友人のご贔屓は元宙組・現星組の七海ひろきさんであり、「タカラヅカ・スカイ・ステージ」*3の番組「Brilliant Dreams」及び「Brilliant Dreams+NEXT」*4で七海さんが「ときめきと潤い」をテーマに「キュンとするシチュエーション」をプロデュースしたシリーズ*5をぜひ見てくれと貸し与えられた。

これにより、私は星組の方々を「カワイイは正義の綺咲愛里さん」「七海さんと三角関係になって身を引く同期の壱城あずささん」「ひろきとゆずる及び紅子の紅ゆずるさん」等と覚え始める*6。また、「エリザベート」「EXCITER!!」等の過去の名作を視聴したり、ネットで組替えやトップの交代等の話題を知るなどして、少しずつタカラヅカの知識を蓄えていった。

 

そして長い助走期間を経て、ついに星組公演「スカーレット・ピンパーネル」(通称「スカピン」)を観劇できることになった。観劇にあたり、まずは2010年月組公演のスカピンを見て予習した。友人は最新のスター学年表、星組生の紹介とスカピンの配役、観劇のポイント等をまとめた自作のパワポ資料(30ページ)とスカピンの主要キャスト座談会などの映像を提供してくれた。さらには、FNSの歌番組で「左後ろの人」として話題となった元月組・現雪組の朝美絢さん*7が出演しているブリドリネクスト(美弥るりかさんのシリーズ)までついていた*8。どこまでも仕事ができる女である。

 

初夏の訪れを感じる6月の昼下がり。東京宝塚劇場の道路を挟んで向かいにシアタークリエがあり、「ジャニーズ銀座2017」というイベントをやっていた。Jr.担の方のツイートからクリエの存在は知っていたものの、恥ずかしながら日比谷にあることを初めて知った。宝塚劇場にもクリエにもたくさんの女性が集まっていて、一帯には期待と興奮と愛が満ちており、さながらエンタメの目抜き通りであった。

友人は先に到着していた。「七海さんの写真を爆買いした」とすみれ色の袋を差し出す彼女を見て、さすがだと深くうなずいた。そして私も劇場に併設された公式ショップ「キャトル・レーヴ」に足を踏み入れた。マチソワの合間の店内は人であふれかえっており、どこからともなく「とにかく顔面の完成度がめっちゃ高いんだよね」「わかる……」という会話が聞こえてきて、ジャニオタとして猛烈なシンパシーを感じた。お写真や雑誌等が並ぶ店内はどこを見渡しても美・美・美。美の四面楚歌だった。私はソワソワと迷った挙句、七海さんasロベスピエールの写真とスカピンのプログラムを購入した。レスリー・キー撮影の写真は、加工ではなくその存在がCGではないかと見まごうほどに麗しかった。

観客は八割方女性だったが、ちらほらと男性の姿もあった。ジャニーズのコンサートに比べ年齢層はやや高めで、マジの金持ちと思われる身なりの良いマダムの姿も見受けられた。 

 

スカーレット・ピンパーネル感想

キャストのみなさんと印象に残ったシーンについて記載したい。ストーリーは公式サイトに載っているが、ざっくり書くと、革命政府下のフランスでスカーレット・ピンパーネルが活躍する愛と勇気の物語である。

 

紅ゆずるさん(パーシー/スカーレット・ピンパーネル/グラパン)

初めて「紅子」さんを見たとき、あまりのキャラの濃さに、タカラヅカにこんな人がいるんだ……と衝撃を受けたことを覚えている。その後、紅さんが次期星組トップスターなのだと知り、さらに驚いた。

本作で紅さんは英国貴族のパーシー、フランス貴族を救うヒーローであるスカーレット・ピンパーネル、ベルギー人スパイのグラパンと三つの顔を持っていた。チャラいパーシーだが、新妻であるマルグリット(綺咲愛里さん)のことは大切に思っている。しかし、お互いが抱える秘密と多忙なスカピン活動のせいで、徐々に心が離れていく。軽妙に華麗に活躍するスカピン、夫婦関係に苦悩するパーシー、老獪でコミカルなグラパン。メリハリが魅力的で、それらを自由自在に行き来するところが紅さんのスターたる所以なのではないかと思った。やはり圧巻だったのがアドリブで、「ショーヴラン(礼真琴さん)が(プリンス・オブ・ウェールズ主催の)仮面舞踏会に行くことを聞いたパーシーが、ショーヴランに自分の衣装を貸すことを提案する場面(毎回異なるアドリブでやりとりする)では、黒ずくめのショーヴランをばいきんまんに見立てていじっており、会場が爆笑の渦に包まれていた。

過去のスカピンを見て、終盤はやや唐突に新喜劇的展開になるなと思っていたのだが、紅さんのスカピンでは、全体に散りばめられたコメディ要素が多い分、終盤へのつながりがナチュラルで、とても鮮やかな幕引きのように感じられた。

そして紅さんは、コメディエンヌな一面と男前な一面とのギャップが激しく、ふり幅がしんどい。グラパンの変装を解いて「私がスカーレット・ピンパーネルだ!」と正体を明かす場面は痛快で眩しく、コンサートなら間違いなく歓声を上げていた。さらにフィナーレでは、ばちーん☆と星が飛びそうな紅さんのウィンクを双眼鏡で目撃してしまい、軽率に死んだ。恐るべきウィンクキラーだった。

 

綺咲愛里さん(マルグリット

綺咲さんはふわふわして女の子らしいイメージだったのだが、マルグリットは元・革命の志士らしく、気高く美しい女性だった。夫パーシーを信じたいのにすれ違ってしまい、元カレ・ショーヴランがその隙間に入り込もうとする。革命政府に捕らわれた弟アルマン(瀬央ゆりあさん)を助けてほしいとショーヴランにすがったと思いきや、少し後にパーシーの手を取って「あなたの力が必要」と言う。めっちゃオンナを出してくるのである。だが、マルグリットが物語をかき回しているのではないか?という疑問は、圧倒的な可愛さを前にして消えてなくなった。つんと澄ました表情も、気落ちした表情も可愛い。可愛いは正義。私はこれからもヒガシマルのうどんスープ*9を愛用しようと固く心に誓った。

それでも、マルグリットが、パーシーを慕うルイ・シャルル(星蘭ひとみさん。顔面の完成度がめっちゃ高い。)から「ひとかけらの勇気」の歌を教わり、パーシーの真意と自分への愛情に気付く場面や、グラパンに扮したパーシーがマルグリット(グラパンがパーシーだと知らない)の本音を聞く場面など、ずれてしまった夫婦の歯車が少しずつ噛みあっていく様子が感動的だった。ラストシーン、船の上で寄り添う二人は心が通い合っているようだった。色々あってヒーローとヒロインがくっつく話ではなく、結婚した二人がすれ違いを経てさらに強固な関係を築く物語で、まさに「夫婦を超えていけ」だなあと思った。

 

礼真琴さん(ショーヴラン)

厳しい上司ロベスピエール(七海ひろきさん)とポンコツな部下たちに挟まれる革命政府の中間管理職(たたき上げの苦労人)であり、冷徹な敵役である。礼さんは小柄な体のどこから出ているのかと思うほどに迫力と安定感のある歌声で、体が座席の背もたれに押し付けられるかのように圧倒された。また、元カノ・マルグリットに未練タラタラで、人妻なのにやたらと腕や肩を掴んで「俺の女」扱いするのにソワソワしてしまった。一方マルグリットは冷静で、革命の熱狂を愛と勘違いしたのよ、と彼を突き放す。文化祭の準備中にカップルが生まれやすいようなアレだよショーヴラン、と思った。

お芝居の最後、下手から白っぽい衣装の人物が出てきて「ひとかけらの勇気」を歌い出した。それは礼さんであり、お芝居の続きではなくフィナーレの序章だったのだが、唐突な新キャラの登場に混乱し、終わってから友人に「あれ誰?」と聞いてしまった。ショーヴランはそれほどの悪人ではないのに、パーシーにやり込められてしまって若干可哀想に思っていたのだが、後味の悪さを払拭する意味でキレイなショーヴランが登場したのではないかという気がした。

 

スカーレット・ピンパーネル団のみなさん

パーシーと共に革命政府から王太子ルイ・シャルルとフランス貴族を救い出す仲間たち。十碧れいやさんと麻央侑希さんの高身長シンメ感や、瀬央ゆりあさんのシュッとした優等生っぽさが中島裕翔さんを彷彿とさせるなど、ジャニオタ的に色々グッとくるところがあったのだが、特筆すべきは図書室のシーンである。

スカピンと疑われないようにド派手な服装で舞踏会に繰り出そう!と歌い踊りながら、次々とカラフルなアニマル柄のロングコート衣装に着替えていく。すごい既視感。ヒョウ柄のロングコートなら、去年の冬に東京ドームで見た*10。情報量の多いカラフルな衣装を着せられがちなグループのファンなので、スカピン団のみなさんが他人とは思えなかった*11

 

夏樹れいさん(サン・シール侯爵、他)

ギロチンが置かれたバスティーユ広場で、スカピンの協力者であるサン・シール侯爵が公安委員のショーヴランに処刑される場面。スカピンの秘密を守り通したサン・シール侯爵の、ギロチンを前にしてなお貴族の誇りを失わない澄んだ表情が印象的だった。礼さんも夏樹さんもお歌が上手く、歌唱力の殴り合いのような迫力があり、ギロチンを取り囲む民衆のくたびれた感も相まって、暗澹とした時代を象徴しているようだった。

夏樹さんはブリドリネクストで「カレーに旗を立てるバーデンダー」として覚え、役名のない役のときやショーでも識別しやすく目に留まる存在だったのだが、生で見てあらためて魅力的だなと思った。

 

七海ひろきさん(ロベスピエール

ジャコバン党の指導者であり、革命政府の長。七海さんは歴史書などを読み込んでロベスピエールを研究したらしく、ブリドリ等で見せるほんわかとした表情とはうってかわって、鋭い目線と威圧感のある声色で、ロベスピエールが憑依したかのような演技だった。反面、座談会では「普段怒ることがないので、人生であった腹立たしいことを思い出して舞台に臨んでいる」という聖人ぶりを感じさせる役作り秘話を語っていて、そのギャップが素敵だった。

崇高な理想を掲げたはずの革命は、過激な粛清が常態化した恐怖政治となり、次第に民衆の心も離れていく。スカピンたちと革命政府は単純な善悪の二項対立ではなく、ロベスピエールは彼の正義と信念を貫いているだけであることが、「ロベスピエールの焦燥」から伝わってきて、歴史好きとして非常に心を揺さぶられた。友人はもちろんロベスピエールに肩入れしているので、「ロベスピエールは消えろ!」と非難されてしょんぼりする七海さんを見て心を痛めていた。

ちなみに友人は宝塚大劇場東京宝塚劇場で複数回スカピンを観劇しており、彼女がオペラグラスを構えると七海さんが登場するので、出番がとてもわかりやすかった。暗転中から素早くオペラを取り出す様は、手練れのジャニオタと何ら変わりなかった。私も双眼鏡で七海さんを追っていたのだが、幕間に友人から「一幕の最後、ギロチンの前に立ってる時に、指を一本ずつ折っていくところが良いんだよね……」と聞き、さすがにポイントを押さえていると驚かされた。二幕で注意して見てみると、たしかに指先まで神経をめぐらせているようで、ノーブルな雰囲気と所作が美しかった。

 

フィナーレ

前述の礼さんによる「ひとかけらの勇気」から始まり、紅色の衣装に身を包んだフレッシュなみなさんによるロケット(ラインダンス)、大量の女子を侍らせた紅さんの妖艶なダンスと、息つく間もなく美しい人々が登場し歌い踊る。

一番テンションが上がったのが、男役のみなさんによる群舞だった。赤と黒のジャケット+ロングブーツ+サーベルの破壊力。華麗にサーベルを振り回すたびに、会場の女性たちがザクザクと斬られていくのがわかった。かっこいいお顔をアップで見たいが、広い画角で揃ったダンスも見たい。美の波状攻撃にワタワタしている間に場面が転換し、紅さんと綺咲さんのトップコンビによるデュエットダンスが始まる。純白の衣装が眩しくて幸せそうで、パーシーとマルグリットの本当の結婚式のようだった。

最後、全員集合のパレードでは階段もシャンシャン*12もピカピカ光っていて、ゴージャスな羽を背負った紅さんをはじめ、組子のみなさんがずらりと並ぶ様子が圧巻で、客席の手拍子もあいまって、年が明けたのかと錯覚するようなおめでたさだった*13。余談だが、紅はこべの花をモチーフにしたシャンシャンはとても可愛らしく、セボンスターにして売ったら女児にウケそうだと思った。

私は大人になってから、小説もドラマも漫画も、負の方向に心を揺さぶられるのがしんどくて、特に後味の悪いものは受け付けなくなった。ジャニオタのフォロワーさんが語っていたのだが、タカラヅカは、たとえ物語が100%のハッピーエンドでなくても、必ず賑やかで華やかなフィナーレで終わるから、晴れ晴れとした気分で帰れる。全くその通りで、とても信頼できるエンターテイメントだと思った。

 

ジャニオタ的な気づき

まずは、東京公演中に宝塚大劇場でのスカピンがDVD・Blu-rayで発売されているという仕事の早さに驚いた。編集に時間を要することや特典映像がつくことを考慮すると、一概には比較できないが、ジャニーズではコンサート終わりからDVD等の発売まで約半年かかることも珍しくない。そして劇中の写真もすでに販売されているという衝撃。これができれば闇写・闇ショ*14が減るのではないかと思う。

 

なにより、公式チャンネルで過去の作品などが見られることが羨ましい。ジャニーズの後発ファンになってまず立ちはだかるのが、過去の映像をいかにして見るかという問題だと思う。伝道師のような古参のファンが身近にいればよいが、コンサートや舞台に至っては、映像化されていないものも多い。また、現行のテレビ番組であっても放送されていない地域があり、日々難民が発生している。

非公式なものをシャットアウトするためにも、ジャニーズ公式チャンネルがあればいいのにと思う。そうすれば大倉くんに「(クロニクルを)デイリーモーションで見てるんやろ」と揶揄されることもなくなるのだ。スカステも他の専門チャンネルに比べると月額が高め(2,700円)らしいが、「言い値で買うから円盤を出してくれ」と望むジャニオタは少なくないはずだから、権利のアレコレにお金をブッ込んでもペイできる価格設定にしてもらって構わない。映像も大して編集しなくていいから、なんならエフェクトとかいらないし、特にダンスでは踊っている自担の全身を引きのカメラで撮ってください。

 

ジャニーズとの共通点もあって、そのひとつに「トンチキに馴らされている」ということが挙げられる*15。ある公演について「久々のトンチキ」「ストーリーはトンチキだけどむしろ組子を見るのに集中できて良い」などの意見を目にして、タカラヅカにもトンチキという概念が存在することに驚いたのだが、友人曰く「昔は特にほぼトンチキだったので、我々ヅカオタはトンチキでも見てしまうように訓練されている」とのことだった。

わかる。トンチキはだんだん病みつきになってくる。たとえば昨年Mステに出ていた、勝利&健人withジャニーズJr.のパフォーマンスは、最初こそ「何を見せられているんだ!?」と腰を抜かしたものの、つい繰り返し見てしまい、「jetなdoするlifeなう……」とつぶやきだすほどの中毒性があった。トンチキを美しい人たちが全力でやっているというアンバランスさが、我々を惹きつけてやまないのだと思う。

 

おわりにー舞台に立つ誰かを応援すること

帰り道、これが最後のスカピン観劇だという友人は「もう七海さんのロベピが観れない……」と意気消沈していた。時を同じくして、私のタイムラインも、横山くんの舞台の東京千秋楽を惜しむ声にあふれており、それを見た大倉くんと安田くん(彼らはまだ東京で舞台公演中なのだが)のファンも、きたるその日を想像して悲しみに暮れていた。舞台の生の空間は毎回違うし、その世界もキャラクターも、期間が終わってしまえばもう二度と対面することができない。だからこそおたくは皆、指先の動き、声の響き、滴る汗、一瞬の表情、感情の機微、さらには出演者と観客が一体となった空気感などを五感で受け止め、忘れたくない感動を胸にしまって反芻し、出会いと喪失を繰り返しながら生きているのだなあと思った。

 

そして後日。私は友人が参加した七海さんのお茶会*16において、七海さんが、諦めない、と言ったことを知った。

トップ・二番手・三番手という序列がある世界で、七海さんはあまりガツガツしておらず、彼女を愛するファンは若干もどかしく思っていたこと、七海さんより学年が下の礼真琴さんが二番手らしいことを友人から聞いていたので、七海さんの決意と、それを受けたファンの心情を思うとたまらない気持ちになった。さらに七海さんは、次のような発言をしていたらしい。

 「絶対に後悔させないので、私の宝塚人生最後の日までついてきてください。みなさんの時間を私にください」

 それを知った瞬間、自分でも驚くほど心が震えて、涙が出そうだった。後悔させない、そう言ってくれる人を応援して後悔なんかするはずないのに、なんてファンに対して誠実な人なんだと思った。一回観劇しただけの人間にも、応援したいと思わせるほどの力がある言葉だった。思わず友人に「七海さんを応援したい、七海さんがまた観たい」とメッセージを送った。

 

タカラヅカでもジャニーズでも、顔がかっこいいとか歌やダンスや演技が上手いとか面白いとか、入り口はわかりやすくても、いつの間にか、その人の仕事・仲間・ファンに対するスタンスや、生き様みたいなものに惹かれていって、自分の中で代替できない存在になっていくこと、結果だけではなくその軌跡すらいとおしく感じること、微力でもその人の力になりたいと思い行動すること、それが誰かを応援するということであると思った*17

この人について行ったらどんな景色が見れるのだろうという期待と興奮を抱え、そして浴びるほどのときめきと潤いをもらいながら、私たちは今日も誰かを応援している。

 

*1:いわゆる「推し」。ジャニーズで言うところの「担当」。

*2:タカラヅカのみなさんのことは「ジェンヌ」「生徒」「組子」等と呼ぶ。みなさんの総称は、たとえば星組なら「星組生」らしい。

*3:CSのタカラヅカ専門チャンネル。通称「スカステ」

*4:スターさんが組のみなさんとやりたいことをやる番組。通称「ブリドリ」「ブリドリネクスト」。

*5:どことなくキスマイの某番組や嵐の某番組にインスパイアされたような演出がある。

*6:関ジャニ∞でたとえるなら、「関ジャニ∞クロニクル」を見て「初老の渋谷すばるさん」「パスポート取りたいんデスの横山裕さん」「ワイワイパニックの村上信五さん」と覚えるような感じだと思う。

*7:中山優馬さんや手越祐也さんに似ている美形な方だと思う。

*8:ジャニーズでたとえるなら、Mステで嵐のバックについていたJr.の子が気になったという人に、「ザ少年倶楽部」の映像を貸し与えるような感じだと思う。

*9:綺咲愛里さんはヒガシマルのキャラクターを務めている。

*10:関ジャニ∞のツアー「関ジャニ’sエイターテインメント」オープニング衣装。

*11:なお、宝塚大劇場でスカピンを見た別の友人(非ジャニオタ)も「あそこめっちゃ関ジャニみあった」と言っていたので、もはやパブリックイメージといってもいい。

*12:ブーケのような小道具。

*13:ジャニオタは美しい人々が全員集合して賑やかに歌い踊る様子を見ると、カウントダウンコンサートを連想して「年が明けた」と言いがち。

*14:コンサートの盗撮写真とそれを売る非公式ショップ。

*15:以下、そもそもトンチキではないというご意見もあるかと思うが、個人の感想なのでご容赦いただきたい。

*16:生徒さんを囲む会。ファンミーティングのようなもの。

*17:ただし、結局、顔がかっこいい等の原点に戻ってくることはよくある。

【ネタバレあり】あの日渋谷で見たゼウス~舞台 上を下へのジレッタ感想

横山くん主演の舞台、「上を下へのジレッタ」を見てから、ずっとフワフワした気分のままでいる。舞台の感想と、恒例のアイドル尊い論を書きたい。

 

・はじめに

関ジャニ∞のファンとして、これまで当然のように横山くんが美しい人であると認識していた。ところが、2016年夏ドラマ「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」をきっかけに、「横山くんが美しい」という事実が、圧倒的な実感を持って身に迫ってくるという体験をした。生きるためには水分が必要だという知識としての事実を、激辛麻婆豆腐を食べたあと水を一気に飲みほした時に痛感するように、横山くんの美しさが「言葉」ではなく「心」で理解できたのである。それは雷に打たれたような、世界が一瞬で変わってしまう衝撃だった。

 

私はとりつかれたようにONの録画を繰り返し視聴した。過去のコンサートDVDを横山くんに注目して見てみると、初見なのかと思うほどに新鮮な気付きがたくさんあり、これまでいかに自分が安田くん中心に見てきたかを思い知った。「よこちょ」「ゆうちん」という呼称が似合う雰囲気だったのに、年齢を重ねるにつれシュッとした「横山さん」になり、美しさに磨きがかかっていく様や、安田くんへの接し方がどんどんマイルドになり、もはや安田担なのではないかと思うほどの甘さをみせるようになった関係性の経年変化が、とても趣深かった。

また、本屋で横山くんが特集された雑誌を開いた次の瞬間、時間を吹っ飛ばされたかのようにレジに立っているという不思議体験も一度や二度ではなく、ONから映画「破門」にかけてのすさまじい雑誌ラッシュに、恍惚の表情でじゃぶじゃぶとお金をつぎ込んでいた。

 Web連載や番宣の露出も含め、麗しく優しくかっこいいお兄ちゃんで、たまに伸ばし棒やカタカナを間違える隙を見せる、手が綺麗なスーパーストイックアイドル横山くんに魅了された2016年-2017年だった。

 

そして2017年春、ONの東海林先輩、破門の二宮という魅力的なキャラクターを演じてきた横山くんが、手塚治虫原作の舞台「上を下へのジレッタ」に主演するという。野心家のテレビディレクター・門前市郎というダーク・ヒーローは、学生時代に間久部緑郎(ロック・ホーム)に心酔して出演作を読み漁った私の琴線をジャカジャカとかき鳴らした。辛くも立見のチケットを入手できた私は、ソワソワとその日を待った。ツイッターでは、しょこたんこと中川翔子さんが連発する「横山大明神」「ゼウスのような存在」等のパワーワードに盛り上がり、舞台への期待も高まっていた。

 

※以下、舞台及び原作のストーリー、演出、結末等のネタバレがあります。ご注意ください。また、死角があった上にメモを取っていないので、あやふやな部分があります。ご容赦ください。

 

 ・舞台 上を下へのジレッタのこと

1960年代の東京。テレビディレクターの門前は、タブーを犯す演出が大手芸能プロ社長たちの逆鱗に触れてテレビ界を追われ、さらに契約結婚していた仕事のパートナー・間リエ(本仮屋ユイカさん)と強引に離婚する。

 

幕が上がり、ひとり舞台の中央に佇む門前(横山くん)が「すべてはまやかし すべては虚構」と静かに歌い出す。まず白百合のような美しい立ち姿に、呼吸を忘れるほど引き込まれ、次いで、緊張感を切り裂いて伸びやかに響く歌声に、息ができなくなるほどの興奮を覚えた。

やがてバックから華やかなセットと演者さんたちが登場し、門前と共に狂乱のごとく歌い踊る。圧倒的な音楽とダンスの洪水に飲み込まれ、「テレビ番組のはずなのになぜディレクターの門前も歌って踊っているのか?」という脳内のマジレスが押し流され、これがストレートプレイでもミュージカルでもない「妄想歌謡劇」であることを叩き込まれる。

門前はやり手だが強引、突拍子もない発想で周りを振り回す人物で、まさにトリックスターの名にふさわしい。キービジュアル公開時に驚きの声が上がっていたとおり、門前が横山くんに寄せてきたのかと思うほどにはまっていた。リエは凛とした大人の女性で、ツイッギーのようなマリークヮントのような、60年代の洗練されたファッションとつやつやのボブがよく似合っていた。

門前とリエのもどかしい関係は物語の見どころのひとつだと思っていて、失業のついでに離婚するくだりでは、心の中で「離婚すな!!」と叫んでしまった。私は双眼鏡を構えながら、位置的に死角となっている部分については、Web写真に写り込む影からアイドルの存在を感じ取ってきたジャニオタの心眼で見ながら悶え苦しんでいた。

 

再起を画策する門前は、前述の芸能プロをクビになった越後君子(中川翔子さん)を拾い、空腹時だけ絶世の美女になるという特性と歌唱力を買って、小百合チエとしてタレント契約を結ぶ。チエを絶食させる門前の前に、チエと同郷で漫画家の卵である恋人・山辺音彦(浜野謙太さん)が現れる。平常時のふくよかなチエを愛する山辺は激怒し、なんやかんやあって門前ともみ合った結果、工事現場の地中深くに転落してしまう。

 

お人形さんという形容では足りないくらいに、チエがとにかく可愛い。歌手として成功したいという夢を持ちつつも、門前に言われるがままに従ってしまうチエは、庇護欲をかきたてる素朴な田舎少女のようで、リエとは対照的である。山辺は原作の雰囲気そのままで、冴えない見た目とソウルフルな歌声のギャップが魅力的だった。この二人の牧歌的でプラトニックな恋愛もとてもよろしかった。

 

門前は、姿を見せない山辺のことを誤魔化し続け、すぐに何か食べようとするチエをなだめすかして売り出す。敏腕ぶりを発揮して海外の有名スターとの共演を取り付け、チエは一躍脚光を浴びるが、なんやかんやあって公演は失敗。門前は再び業界での地位を失ってしまう。 失意の彼を迎えたのは、元妻のリエだった。

 

「そろそろ来る頃だと思っていたわ」と言い放つリエは、去る者追わず来るもの拒まずで受け入れる港のような女であり、門前に対してブレーンや契約結婚の範疇を超えた感情を抱いていることをうかがわせる。門前も、唯一チエに対しては弱さを見せており、傲慢でプライドの高い彼の人間的な魅力がにじみ出ていると思った。怒涛のストーリー展開を見せるこの舞台にあって、二人のシーンは緩急の「緩」のように感じた。

 

一方、死亡したかと思われた山辺は、妄想と漫画の没アイデアが入り混じったバーチャルリアリティーの世界・ジレッタを生み出していた。門前は、テレビに代わるメディアとしてジレッタを利用することを企む。門前は都合よくリエに協力を求めるも、「チエと別れること」を条件に出されてしまう。

 

ジレッタは、他人が入り込んで体験できる山辺の妄想世界である。原作ではエロ・グロ・ナンセンスや風刺的な描写があったが、舞台では茶目っ気はそのままに、少しの毒気を残しながら、歌とダンスと舞台装置によってきらびやかに表現されていた。

リエが猛烈に嫉妬心を燃やしているのに対し、チエと別れる気などさらさらない門前は、リエの追及をのらりくらりとかわして、「女の嫉妬に付き合っている暇はない」といった趣旨のひとりごとを吐く(壮大なフラグ)。

 

スポンサーを得た門前は、山辺を丸め込み、ジレッタをビジネスとして展開する。さらにジレッタは日本政府によるプロパガンダへと発展していく。ジレッタの全国放送直前、リエが門前の元に訪れ、別の男性と結婚してジュネーブに行くと言い、彼に別れを告げる。プライドを傷つけられた門前は、全国放送ででたらめな妄想を流すよう山辺に指示し、混乱に乗じて国外逃亡することを画策する。行先は、ジュネーブ

 

全編を通して黒いスーツに身を包んでいる門前だが、政府を味方につけた後のシーンではベロアのジャケットを着ており、あからさまな「成功した感」がとてもいとおしい。

リエは門前に対し「あなたは平凡な男に成り下がってしまった」と言い放つ。しかし、捨てられた復讐という感じはしない。彼女は門前の唯一の理解者であり、斬新な企画を次々と実現させる彼の手腕だけではなく、自らがその仕掛けを楽しんでいるような、エンターテイナーとしての純粋さを深く愛していたのだと思わせる。そもそも別れを告げること自体が未練の表れであることが伝わってきて、たまらない気持ちになった。

ここで二人の間の矢印が反転し、門前は手に入れた地位や基盤をかなぐり捨ててリエを追いかける。行先は、ジュネーブ(わかりやすく可愛い)。フラグの回収が期待通りで、心の中で拍手してしまった。

 

ジュネーブへの道中、飛行機の超音波かなにかと山辺のなにかが共鳴し、装置なしに、より広範囲の人々をジレッタに連れ込むことができるようになる。門前は進化した山辺の能力を利用し、全世界の人間を対象に地球最後の日という妄想を見せようと企む。

門前から終末のジレッタ構想を聞いたリエは夫を守るため、山辺と話をつけようとするも、チエを巻き込んで修羅場になり、女同士の嫉妬が爆発した結果、チエは川に転落してしまう。

 

物語の中で私が一番ぐっときたのが、門前がリエに「ずっとなにも 変わりはない 出会った頃から 東京でも ジュネーブでも 欠けてるピースは すぐ目の前にあるよ」と思いを告げる舞台オリジナルのシーン。

本当に必要な存在にようやく気付いた門前は「"Never let me go"?」と甘く真摯に歌いかけるが、時すでに遅くリエは門前の手をすり抜けていく。横山くん、去年の夏はあんなに「Never let you go」と歌っていたのに。*1

 

飛行機のシーン以降、聴診器を山辺の体にあてる、専用の劇場でヘッドホンをつける、といったジレッタへの明らかな導入がなくなり、劇中歌やミュージカル的表現としての歌と、ジレッタ世界の境界が曖昧になってくる。

ここにきて、山辺自身にも変化が起きる。「世界にお前の力を見せてやれ(ニュアンス)」と門前に煽られて火がつき、破滅のジレッタで世界を驚かせてやると息巻く。そんな山辺を見て、チエは「まるで先生(門前)みたい」と嘆く。夢を叶え幸せになろうとふたり手を取り合い地方から出てきたのに、文字通り随分と遠くに行ってしまったと思った。

 

山辺のジレッタを止めようとするリエは、「この女と門前の関係を知っているの?」と問いかける。悲劇のヒロインのようだったチエだが、山辺に知られそうになった途端、烈火のごとく怒りだす。当然ながら門前は職権乱用の鬼畜Pだし、公演失敗の負い目や金銭的事情が背景にあったことを思うと、チエが可哀想で胸が痛む。しかし、門前との関係を続けながら、一方で山辺には隠し通して結婚するつもりだったこと思うと、「チエちゃん、、、門前に弱みを握られたんだよね。チエは悪くない!( T_T)\(^-^ )でも、可愛い顔してなかなかやるね(゚o゚;;なんだかドキドキしてきちゃったよε-(´∀`; )」と私の中のオジサンが覚醒してしまった。

 

病院で意識が回復したチエは、山辺に「世界中が認めなくたって わたしが認めてあげる」と歌いかけるが、力尽きて亡くなってしまう。チエのいない世界に意味はないと自暴自棄になった山辺は、世界最後の日のジレッタを実行し、その中でチエの元へと旅立つ。妄想が現実世界を凌駕し、門前は終わらせる者がいなくなったジレッタの闇に飲み込まれ、幕が下りる。

 

リエが門前の童心に惹かれていたように、チエは地味ながら誠実な山辺が好きだったのに、みな夢を追い愛を求めていただけだったのに、肥大した欲望のせいですれ違い、行き着いた先は破滅だった。チエは死ぬまで報われない役だったが、終末のジレッタにおいて、山辺と優しく見つめ合いながら白い光に包まれるシーンが、死後にようやく安寧を得たエリザベートトートの姿に重なり、カタルシスを感じた(突然の宝塚)。

一方、門前が悲痛な叫びをあげながらフェードアウトしていく様は、見ていられない程で、胸を刺される思いだった。彼は欲深く自己中心的で冷徹なキャラクターだったが、自業自得、ザマァとは到底思えなかった。

門前は転んでもただでは起きない男だから、ジレッタの世界を生き抜いてのし上がり、テレビやジレッタに匹敵するような、人々を驚かす仕掛けをやってのけるのではないかと期待せざるを得ない。なぜなら、ゼウスは森羅万象を支配し、混沌の世界に秩序を与える全能の神であるから。

 

 原作を読んだ段階では、チエが「空腹時だけ絶世の美女になる」という設定、ジレッタ中の荒唐無稽な妄想、めまぐるしく転換する場面をどのように舞台上で見せるのか想像がつかなかった。だが始まってみると、疑問はすべてきれいに解消されて、何の違和感もなくその世界に入り込んでいた。歌がキャラクター紹介やストーリー説明の役割を担っていて、情報量の多い物語をコンパクトかつダイナミックに見せていた。作品全体が多種多様な楽曲とダンスで彩られており、見て・聞いているだけで脳内麻薬がドバドバ放出され、フワフワとトリップするような錯覚を覚えた。

そして当たり前なのだが、チエのバックダンサー、ジレッタ世界の住人、飛行機内の人々などを演じる役者さんたちは、歌もダンスも演技もお上手で、衣装も可愛らしく、とにかく目が忙しかった。出番や衣装チェンジが多く相当にハードだと思われるが、それすら楽しんでいるような様子が眩しかった。

私の観劇予定はこの一回だけだったので、これがもう二度と体験できないのかと思うと残念で仕方なかった。なにより横山くんがとにかく歌って踊って叫んで鬼気迫る演技で、観客は全員横山ゼウス裕に飲み込まれ、カーテンコールでゼウスの頭がカチ割れて、スポーンと放出された感じだった。終わってからしばらくは放心状態で、この世界もジレッタなのではないかという胡蝶の夢状態に陥り、ふと気がつくと、円山町のラブホテル街に迷い込んでいた。

 

・ジャニーズ強い、尊いということ

ジャニーズは実力ある俳優を差し置いて、見た目の良さと事務所のごり押しで主役に収まり、棒演技で作品を台無しにするという不満は、ネットで嫌というほど見た。おとなしく上裸にジャケットで乳首をチラチラ見せて、下手くそな安い歌でバカな女をキャーキャー言わせておけばいいのに、こちらの領域を侵犯することが許せないというドラマ・音楽・演劇ファンもいるかもしれない。私もジャニオタになる前は、どこかでそんな風に軽んじていた気がする。

だが、彼らはアイドルという存在が色眼鏡で見られがちなのを百も承知で、枠に収まらず様々な分野に挑戦し続けている。何本ものレギュラー番組、コンスタントなCDリリース、五大ドームツアーと、既存のファン相手だけで、十分やっていけるほどの売れっ子にもかかわらず。そして乳首はチラチラではなく堂々と見せるタイプのアイドルだった。今回横山くんの舞台を通じて、ジャニーズってやっぱ強いよなあと思った。

 

まず第一に、主役にふさわしい華と知名度があること。門前が危険な色気溢れるダーク・ヒーローであると同時に、憎みきれない魅力を持つキャラクターに仕上がっていたのは、実存を疑われるほど*2の横山くんの美しさと、「お昼の日テレとかで見るなぁ」という親近感によるものだと思う。そしてアイドルであるから、自分の見せ方を知っている。その華やかさが観客を惹きつけ、物語は深みを増す。ファンの欲目かもしれないが、横山くんが演じていたからこそ、ラストシーンはとてもドラマチックになっていたと思う。

次に、ジェネラリストとしての経験。何かを経験することは、その知識ややり方を身につけるだけではなく、汎用性のある考え方やアプローチの仕方を学ぶことである。横山くんは物事のコアの部分を理解して吸収するのが特に上手い人だと思う。本仮屋ユイカさんが「集中力が途切れない。スタッフさんと共演者の橋渡しをしてくれる」と言っていたように、コンサート、ドラマ、バラエティ等、ジャニーズとして場数を踏んできたからこそ、全体を見渡して人をまとめ、求められるものを察知して素早くそれに応えることができるのだろう。

 最後に、強みというよりはアイドルの尊さなのだが、美しい白鳥のようであるのに、バタ足しているところを見せてくれるという点。横山くんは2か月のボイトレを積んで舞台に臨んだという。歌への苦手意識は常々語っていたが、それを感じさせないほど、声が太くて伸びやかだと思ったし、技量だけではなくて、観客の心を揺さぶる熱が込められていた。

彼は30歳を過ぎてからトランペットを始め、体をバッキバキに鍛えるようになり、上達も失敗も含め、ファンにその過程を見せてきたと思う。特殊な才能を持った人だからアイドルなのだが、それに甘んじずストイックに努力し続けている。ファンはその姿に勇気と活力をもらえる。レベルは違えど、自分も努力すれば変われるのではないかという気がしてくる(ちなみに私の夫は関ジャニ∞のファンではないが、テレビ等で横山くんの体を見るたびに「横山バッキバキやん、かっこええなあ」と言っており、因果関係はわからないものの、しばらくしてジムに通い始めた)。

観劇中、嘘みたいに端正な顔から滴る汗を目にして、「横山くん、生きてる……」と思った。アイドルは暗闇を照らす神のような存在でありながら、自分と同じように生きているひとりの人間なのだ*3

 

・おわりに

昨年のドリフェスや先日のメトロックなど、すばるくんはアウェーでいつも、「関ジャニ∞ってアイドルやってます」とあいさつする。それは「アイドルやしちょっとくらい下手でも許したってや」「俺らアイドルにしてはなかなかやるやろ」という意味ではなくて、その道一筋のプロに敬意を払いながら、なんでもやりつつもどれも手を抜かないのがアイドルだという、決意とプライドの表れだと思う。

 

ジャニーズを軽んじる人に真っ向から反論する気はない。しかし誰かを見下すより、応援した方が何倍も楽しいし、ファンでよかったなと思うことがコンスタントに起きるので、エンタメとしてめちゃくちゃにコスパがいいと思う。そしてファンになってからも、いつどこで彼らに度肝を抜かれるか予想がつかない。だから楽しい。

 

 

*1:2016年夏のアリーナツアー「関ジャニ∞リサイタル 真夏の俺らは罪なヤツ」。「Dye D?」で「Never let you go」と「熱中症」をかけた空耳ネタが披露され、横山くんは毎回熱中症で倒れる役だった。かっこいいダンス曲なのに、あれ以来熱中症がちらついて変な気分になるとの声多数。

*2:メトロックで初めて生の横山くんを目にした人の感想に「彼だけ初音ミクのように投影されているみたいだった」というのがあった。

*3:テレビガイドアルファでヤスくんが「見る者の欲望に合わせ、スター性と等身大の両面を行き来できることがアイドルの真髄」と語っていた。

マッサージ探偵ジョーが面白い~ミステリの様式美とトンデモ設定の調和~

先週から、「マッサージ探偵ジョー」のことばかり考えている。ずっと頭から離れないので、ダイレクトマーケティング的に同ドラマについて記事を書くことにした。

 

※以下、ミステリ部分のネタバレはしていませんが、第一話の内容や展開をモリモリ記載しています。

 

 

「マッサージ探偵ジョー」とは、テレビ東京・土曜深夜のドラマ枠「土曜ドラマ24」において、4月から放送が開始されたKAT-TUNの中丸雄一さん主演のサスペンスドラマである。探偵役がマッサージ師であり、容疑者にマッサージを施すことにより事件の謎を解くという新感覚ミステリで、テレ東深夜らしいお色気シーンと、実用的な「ツボ」の豆知識、さらに異常な中毒性を持つエンディングテーマ・ダンスと、とにかく見どころにあふれている。放送前から「マッサージ探偵」という絶妙なB級感の漂う響きと、マッサージ師の服が妙に似合う中丸くんのビジュアルがツイッターで話題になっていた。うすた京介先生の漫画で育った身として「カリスマ整体師 あおすじ吾郎」*1に似たにおいに惹かれ、意気込んで見たのだが、期待を上回る面白さだった。

 

 

オープニングでは、どこかで見たことのある名探偵たちのコスプレをした中丸くんが映し出される。頭脳が大人の小学生探偵、じっちゃんが有名な高校生探偵、実に面白い天才物理学者といった有名どころから、ジャニーズの先輩たちが演じた探偵まで、畳みかけるように現れる演出が、このドラマが探偵もののパロディであることを物語っており、攻めの姿勢を感じさせる。

 

本編にも、パロディや小ネタがこれでもかと詰め込まれている。横山めぐみさん演じるセクシーなマダムがシルクのローブを着て籐の椅子に座っているシーンはどう見てもエマニュエル夫人だし、マダムの裸体を隠していたバッグをジョーがよけて、あわや!と思いきや、フラワーアレンジメントで見えない、という二段仕込みの演出はエヴァンゲリオンを連想させる。

ダイエットサプリ「ヤセマクリマクリスティ」は、もちろん90年代のヴィジュアル系バンド「ラクリマ・クリスティー」が元ネタ*2であり、アラサーのツボを押さえたチョイスが憎い。インターホンのボタンを親指で押すシーンも、マッサージ師という設定を徹底していて文字通りグッときた。

 

コミュ障気味で猫背のジョーだが、ツボの名称を呪文のように唱えた途端、人が変わったように超絶テクニックでマッサージを施し、人体の秘密と事件の謎をほぐしていく。刑事が自信満々に披露する推理が頓挫したところで、ジョーが満を持して謎解きを始めるのが痛快だし、「謎がほぐれました」「事件のツボはここだ!」といった決め台詞も、ミステリの醍醐味である。

一方で、全体的な低予算感と適度なお色気も、テレ東深夜の面目躍如だと思う。ジョーのマッサージを受ける容疑者たちが男女問わず喘ぎまくる様子が、くだらなすぎて笑ってしまった。

脇を固めるキャラクターも魅力的だ。ハイテンションで可愛い、後輩マッサージ師兼探偵助手のあぐりや、おとぼけ刑事コンビのマネー&タイガー、頼もしくも秘めた目的をうかがわせる、ほぐす堂の主人・エコ婆など、強烈な個性を持つ面々が、寡黙なジョーに代わってサクサクとストーリーを展開させる。

 

パロディであることが、笑いを生み出すだけではなく、サクサク展開を可能にし、かつトンデモ設定を浸透させている秘訣だと思う。

たとえば昔話を題材にした漫才では、前提知識を利用し、手っ取り早く客を引き付けて、そこから逸脱することで笑いを生む。対して、最小限の説明で独特の世界観に引き込むことにより、そのルールの中で笑いを生むコントもある*3

このドラマでは、「探偵もの」という既存のフレームワークを意識させることで、視聴者は、①事件が起こり②状況説明があり③容疑者が集合し④探偵が謎を解く、という流れを予測し、脳内で補完することができる。おかげで、「体のツボを押して事件の謎を解く」という突拍子もない設定を驚くほどスムーズに受け入れていることに気付く。容疑者であったはずのジョーが突如、刑事を差し置いて容疑者たちを床に寝かせ、マッサージを施すといった多少強引な展開も、それ自体が笑うポイントであるし、むしろキッチュな世界観に沿った自然な流れのように感じられる。冒頭の名探偵パロディも、最高のつかみであると同時に、最高に効果的な導入だったのだと思った。

30分というごく短い時間で、名探偵による謎解きのカタルシスをもたらすばかりではなく、笑い、お色気、ツボの知識、さらには人間ドラマまで見せてしまう。「マッサージ探偵ジョー」は、ミステリの様式美とトンデモ設定が見事に調和した、おそるべきエンターテイメントなのだ。

 

さらに、エンディングまで気が抜けない。インド風の曲「お疲れサンクス」に合わせ、ジョーこと中丸くんが真顔で踊るのである。「逃げ恥」を彷彿とさせるキャッチーな歌とダンスは、謎の爽快感と中毒性がある。中丸くんはこの曲で「矢吹原丈」としてソロデビューを果たしており、配信サイトで3日連続1位を獲得したとニュースになっていた。「マッサージ探偵がドラマのエンディングでインド風の曲を歌い踊る」というヤバめの設定も、中丸くんが歌と踊りを本業とするジャニーズであることにより、違和感なく受け入れられる(気がする)。

同様に「欲求不満のマダムから全裸で迫られるも、見事な手さばきで快楽へと誘い、難を逃れる」という、男が貞操を守る謎展開も、アイドル中丸くんだからうなずけるものであるし、タブーの多いジャニーズだからこそ、ギリギリのネタが一層面白い。KAT-TUNのデビュー曲「Real Face」の有名な一節「ギリギリでいつも生きていたいから」は、このドラマの伏線だったのではないかとすら思えてくる。

 

ギリギリの中丸くんで思い出すのは、2015年ゼウスの番宣で、NEWS手越くんとニコ生に出演したことだ。出演といってもネットNGのジャニーズであるから、姿は映らない。芸人チーム(普通に映っている)と卓球等で対決しているのに、ジャニーズチームは声すらほとんど聞こえないという、シュールかつスレスレの演出だった。個人的にネットNGルールはやめてほしいと思っているが、そのせいで「顔は映っていないのにジャニーズの存在を感じさせる手とか影とかの写真」に興奮するという性癖が開発されてしまったので、ニコ生での限界に挑戦したネタが面白くて、中丸担と手越担が羨ましいと思った。ちなみに中丸くんは「声もなるべく出さないでください」という指示に早速「わかりました!」と答え、さらには事故的にカメラに映り込んでしまい、ギリギリどころかアウトだったと記憶している。

 

私はKAT-TUNと中丸くんには詳しくなかったのだが、今回、中丸くんがその童顔に反して背が高いこと、男らしくもすらりとして綺麗な手の持ち主であることを知って驚いた。この話を書くにあたって「中丸雄一 エピソード」「KAT-TUN コンビ」等で検索してしまったので、また新たな沼の縁に立っている気がしなくもない。

 

 

長々と語ったが、「マッサージ探偵ジョー」は、理屈をこねくり回すまでもなく、頭を空っぽにして楽しむことができるドラマだ。放送時間がやや遅いが、非常に実況向きなので、次回はツイッターでヤイヤイ騒ぎながら見たいと思っている。

一話完結なので第二話からでも楽しめるし、amazon Prime Videoでバックナンバーが見れるほか、テレビ放送に先立って最新話が配信されているので、気になった方はぜひ見ていただきたい。

土曜ドラマ「マッサージ探偵ジョー」は、テレビ東京系・日曜0:20~放送中!

 (公式サイト)

土曜ドラマ24「マッサージ探偵ジョー 」:テレビ東京

*1:ピューと吹く!ジャガー」の中で突如展開された別漫画

*2:うすた京介先生はコミックスのおまけページか何かで「メリー・ラクリマ・クリスティー」というネタを書いていた気がする。

*3:ラーメンズ笑い飯などは両方とも得意なイメージ