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エンターテイメントの話

【ネタバレあり】あの日渋谷で見たゼウス~舞台 上を下へのジレッタ感想

横山くん主演の舞台、「上を下へのジレッタ」を見てから、ずっとフワフワした気分のままでいる。舞台の感想と、恒例のアイドル尊い論を書きたい。

 

・はじめに

関ジャニ∞のファンとして、これまで当然のように横山くんが美しい人であると認識していた。ところが、2016年夏ドラマ「ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子」をきっかけに、「横山くんが美しい」という事実が、圧倒的な実感を持って身に迫ってくるという体験をした。生きるためには水分が必要だという知識としての事実を、激辛麻婆豆腐を食べたあと水を一気に飲みほした時に痛感するように、横山くんの美しさが「言葉」ではなく「心」で理解できたのである。それは雷に打たれたような、世界が一瞬で変わってしまう衝撃だった。

 

私はとりつかれたようにONの録画を繰り返し視聴した。過去のコンサートDVDを横山くんに注目して見てみると、初見なのかと思うほどに新鮮な気付きがたくさんあり、これまでいかに自分が安田くん中心に見てきたかを思い知った。「よこちょ」「ゆうちん」という呼称が似合う雰囲気だったのに、年齢を重ねるにつれシュッとした「横山さん」になり、美しさに磨きがかかっていく様や、安田くんへの接し方がどんどんマイルドになり、もはや安田担なのではないかと思うほどの甘さをみせるようになった関係性の経年変化が、とても趣深かった。

また、本屋で横山くんが特集された雑誌を開いた次の瞬間、時間を吹っ飛ばされたかのようにレジに立っているという不思議体験も一度や二度ではなく、ONから映画「破門」にかけてのすさまじい雑誌ラッシュに、恍惚の表情でじゃぶじゃぶとお金をつぎ込んでいた。

 Web連載や番宣の露出も含め、麗しく優しくかっこいいお兄ちゃんで、たまに伸ばし棒やカタカナを間違える隙を見せる、手が綺麗なスーパーストイックアイドル横山くんに魅了された2016年-2017年だった。

 

そして2017年春、ONの東海林先輩、破門の二宮という魅力的なキャラクターを演じてきた横山くんが、手塚治虫原作の舞台「上を下へのジレッタ」に主演するという。野心家のテレビディレクター・門前市郎というダーク・ヒーローは、学生時代に間久部緑郎(ロック・ホーム)に心酔して出演作を読み漁った私の琴線をジャカジャカとかき鳴らした。辛くも立見のチケットを入手できた私は、ソワソワとその日を待った。ツイッターでは、しょこたんこと中川翔子さんが連発する「横山大明神」「ゼウスのような存在」等のパワーワードに盛り上がり、舞台への期待も高まっていた。

 

※以下、舞台及び原作のストーリー、演出、結末等のネタバレがあります。ご注意ください。また、死角があった上にメモを取っていないので、あやふやな部分があります。ご容赦ください。

 

 ・舞台 上を下へのジレッタのこと

1960年代の東京。テレビディレクターの門前は、タブーを犯す演出が大手芸能プロ社長たちの逆鱗に触れてテレビ界を追われ、さらに契約結婚していた仕事のパートナー・間リエ(本仮屋ユイカさん)と強引に離婚する。

 

幕が上がり、ひとり舞台の中央に佇む門前(横山くん)が「すべてはまやかし すべては虚構」と静かに歌い出す。まず白百合のような美しい立ち姿に、呼吸を忘れるほど引き込まれ、次いで、緊張感を切り裂いて伸びやかに響く歌声に、息ができなくなるほどの興奮を覚えた。

やがてバックから華やかなセットと演者さんたちが登場し、門前と共に狂乱のごとく歌い踊る。圧倒的な音楽とダンスの洪水に飲み込まれ、「テレビ番組のはずなのになぜディレクターの門前も歌って踊っているのか?」という脳内のマジレスが押し流され、これがストレートプレイでもミュージカルでもない「妄想歌謡劇」であることを叩き込まれる。

門前はやり手だが強引、突拍子もない発想で周りを振り回す人物で、まさにトリックスターの名にふさわしい。キービジュアル公開時に驚きの声が上がっていたとおり、門前が横山くんに寄せてきたのかと思うほどにはまっていた。リエは凛とした大人の女性で、ツイッギーのようなマリークヮントのような、60年代の洗練されたファッションとつやつやのボブがよく似合っていた。

門前とリエのもどかしい関係は物語の見どころのひとつだと思っていて、失業のついでに離婚するくだりでは、心の中で「離婚すな!!」と叫んでしまった。私は双眼鏡を構えながら、位置的に死角となっている部分については、Web写真に写り込む影からアイドルの存在を感じ取ってきたジャニオタの心眼で見ながら悶え苦しんでいた。

 

再起を画策する門前は、前述の芸能プロをクビになった越後君子(中川翔子さん)を拾い、空腹時だけ絶世の美女になるという特性と歌唱力を買って、小百合チエとしてタレント契約を結ぶ。チエを絶食させる門前の前に、チエと同郷で漫画家の卵である恋人・山辺音彦(浜野謙太さん)が現れる。平常時のふくよかなチエを愛する山辺は激怒し、なんやかんやあって門前ともみ合った結果、工事現場の地中深くに転落してしまう。

 

お人形さんという形容では足りないくらいに、チエがとにかく可愛い。歌手として成功したいという夢を持ちつつも、門前に言われるがままに従ってしまうチエは、庇護欲をかきたてる素朴な田舎少女のようで、リエとは対照的である。山辺は原作の雰囲気そのままで、冴えない見た目とソウルフルな歌声のギャップが魅力的だった。この二人の牧歌的でプラトニックな恋愛もとてもよろしかった。

 

門前は、姿を見せない山辺のことを誤魔化し続け、すぐに何か食べようとするチエをなだめすかして売り出す。敏腕ぶりを発揮して海外の有名スターとの共演を取り付け、チエは一躍脚光を浴びるが、なんやかんやあって公演は失敗。門前は再び業界での地位を失ってしまう。 失意の彼を迎えたのは、元妻のリエだった。

 

「そろそろ来る頃だと思っていたわ」と言い放つリエは、去る者追わず来るもの拒まずで受け入れる港のような女であり、門前に対してブレーンや契約結婚の範疇を超えた感情を抱いていることをうかがわせる。門前も、唯一チエに対しては弱さを見せており、傲慢でプライドの高い彼の人間的な魅力がにじみ出ていると思った。怒涛のストーリー展開を見せるこの舞台にあって、二人のシーンは緩急の「緩」のように感じた。

 

一方、死亡したかと思われた山辺は、妄想と漫画の没アイデアが入り混じったバーチャルリアリティーの世界・ジレッタを生み出していた。門前は、テレビに代わるメディアとしてジレッタを利用することを企む。門前は都合よくリエに協力を求めるも、「チエと別れること」を条件に出されてしまう。

 

ジレッタは、他人が入り込んで体験できる山辺の妄想世界である。原作ではエロ・グロ・ナンセンスや風刺的な描写があったが、舞台では茶目っ気はそのままに、少しの毒気を残しながら、歌とダンスと舞台装置によってきらびやかに表現されていた。

リエが猛烈に嫉妬心を燃やしているのに対し、チエと別れる気などさらさらない門前は、リエの追及をのらりくらりとかわして、「女の嫉妬に付き合っている暇はない」といった趣旨のひとりごとを吐く(壮大なフラグ)。

 

スポンサーを得た門前は、山辺を丸め込み、ジレッタをビジネスとして展開する。さらにジレッタは日本政府によるプロパガンダへと発展していく。ジレッタの全国放送直前、リエが門前の元に訪れ、別の男性と結婚してジュネーブに行くと言い、彼に別れを告げる。プライドを傷つけられた門前は、全国放送ででたらめな妄想を流すよう山辺に指示し、混乱に乗じて国外逃亡することを画策する。行先は、ジュネーブ

 

全編を通して黒いスーツに身を包んでいる門前だが、政府を味方につけた後のシーンではベロアのジャケットを着ており、あからさまな「成功した感」がとてもいとおしい。

リエは門前に対し「あなたは平凡な男に成り下がってしまった」と言い放つ。しかし、捨てられた復讐という感じはしない。彼女は門前の唯一の理解者であり、斬新な企画を次々と実現させる彼の手腕だけではなく、自らがその仕掛けを楽しんでいるような、エンターテイナーとしての純粋さを深く愛していたのだと思わせる。そもそも別れを告げること自体が未練の表れであることが伝わってきて、たまらない気持ちになった。

ここで二人の間の矢印が反転し、門前は手に入れた地位や基盤をかなぐり捨ててリエを追いかける。行先は、ジュネーブ(わかりやすく可愛い)。フラグの回収が期待通りで、心の中で拍手してしまった。

 

ジュネーブへの道中、飛行機の超音波かなにかと山辺のなにかが共鳴し、装置なしに、より広範囲の人々をジレッタに連れ込むことができるようになる。門前は進化した山辺の能力を利用し、全世界の人間を対象に地球最後の日という妄想を見せようと企む。

門前から終末のジレッタ構想を聞いたリエは夫を守るため、山辺と話をつけようとするも、チエを巻き込んで修羅場になり、女同士の嫉妬が爆発した結果、チエは川に転落してしまう。

 

物語の中で私が一番ぐっときたのが、門前がリエに「ずっとなにも 変わりはない 出会った頃から 東京でも ジュネーブでも 欠けてるピースは すぐ目の前にあるよ」と思いを告げる舞台オリジナルのシーン。

本当に必要な存在にようやく気付いた門前は「"Never let me go"?」と甘く真摯に歌いかけるが、時すでに遅くリエは門前の手をすり抜けていく。横山くん、去年の夏はあんなに「Never let you go」と歌っていたのに。*1

 

飛行機のシーン以降、聴診器を山辺の体にあてる、専用の劇場でヘッドホンをつける、といったジレッタへの明らかな導入がなくなり、劇中歌やミュージカル的表現としての歌と、ジレッタ世界の境界が曖昧になってくる。

ここにきて、山辺自身にも変化が起きる。「世界にお前の力を見せてやれ(ニュアンス)」と門前に煽られて火がつき、破滅のジレッタで世界を驚かせてやると息巻く。そんな山辺を見て、チエは「まるで先生(門前)みたい」と嘆く。夢を叶え幸せになろうとふたり手を取り合い地方から出てきたのに、文字通り随分と遠くに行ってしまったと思った。

 

山辺のジレッタを止めようとするリエは、「この女と門前の関係を知っているの?」と問いかける。悲劇のヒロインのようだったチエだが、山辺に知られそうになった途端、烈火のごとく怒りだす。当然ながら門前は職権乱用の鬼畜Pだし、公演失敗の負い目や金銭的事情が背景にあったことを思うと、チエが可哀想で胸が痛む。しかし、門前との関係を続けながら、一方で山辺には隠し通して結婚するつもりだったこと思うと、「チエちゃん、、、門前に弱みを握られたんだよね。チエは悪くない!( T_T)\(^-^ )でも、可愛い顔してなかなかやるね(゚o゚;;なんだかドキドキしてきちゃったよε-(´∀`; )」と私の中のオジサンが覚醒してしまった。

 

病院で意識が回復したチエは、山辺に「世界中が認めなくたって わたしが認めてあげる」と歌いかけるが、力尽きて亡くなってしまう。チエのいない世界に意味はないと自暴自棄になった山辺は、世界最後の日のジレッタを実行し、その中でチエの元へと旅立つ。妄想が現実世界を凌駕し、門前は終わらせる者がいなくなったジレッタの闇に飲み込まれ、幕が下りる。

 

リエが門前の童心に惹かれていたように、チエは地味ながら誠実な山辺が好きだったのに、みな夢を追い愛を求めていただけだったのに、肥大した欲望のせいですれ違い、行き着いた先は破滅だった。チエは死ぬまで報われない役だったが、終末のジレッタにおいて、山辺と優しく見つめ合いながら白い光に包まれるシーンが、死後にようやく安寧を得たエリザベートトートの姿に重なり、カタルシスを感じた(突然の宝塚)。

一方、門前が悲痛な叫びをあげながらフェードアウトしていく様は、見ていられない程で、胸を刺される思いだった。彼は欲深く自己中心的で冷徹なキャラクターだったが、自業自得、ザマァとは到底思えなかった。

門前は転んでもただでは起きない男だから、ジレッタの世界を生き抜いてのし上がり、テレビやジレッタに匹敵するような、人々を驚かす仕掛けをやってのけるのではないかと期待せざるを得ない。なぜなら、ゼウスは森羅万象を支配し、混沌の世界に秩序を与える全能の神であるから。

 

 原作を読んだ段階では、チエが「空腹時だけ絶世の美女になる」という設定、ジレッタ中の荒唐無稽な妄想、めまぐるしく転換する場面をどのように舞台上で見せるのか想像がつかなかった。だが始まってみると、疑問はすべてきれいに解消されて、何の違和感もなくその世界に入り込んでいた。歌がキャラクター紹介やストーリー説明の役割を担っていて、情報量の多い物語をコンパクトかつダイナミックに見せていた。作品全体が多種多様な楽曲とダンスで彩られており、見て・聞いているだけで脳内麻薬がドバドバ放出され、フワフワとトリップするような錯覚を覚えた。

そして当たり前なのだが、チエのバックダンサー、ジレッタ世界の住人、飛行機内の人々などを演じる役者さんたちは、歌もダンスも演技もお上手で、衣装も可愛らしく、とにかく目が忙しかった。出番や衣装チェンジが多く相当にハードだと思われるが、それすら楽しんでいるような様子が眩しかった。

私の観劇予定はこの一回だけだったので、これがもう二度と体験できないのかと思うと残念で仕方なかった。なにより横山くんがとにかく歌って踊って叫んで鬼気迫る演技で、観客は全員横山ゼウス裕に飲み込まれ、カーテンコールでゼウスの頭がカチ割れて、スポーンと放出された感じだった。終わってからしばらくは放心状態で、この世界もジレッタなのではないかという胡蝶の夢状態に陥り、ふと気がつくと、円山町のラブホテル街に迷い込んでいた。

 

・ジャニーズ強い、尊いということ

ジャニーズは実力ある俳優を差し置いて、見た目の良さと事務所のごり押しで主役に収まり、棒演技で作品を台無しにするという不満は、ネットで嫌というほど見た。おとなしく上裸にジャケットで乳首をチラチラ見せて、下手くそな安い歌でバカな女をキャーキャー言わせておけばいいのに、こちらの領域を侵犯することが許せないというドラマ・音楽・演劇ファンもいるかもしれない。私もジャニオタになる前は、どこかでそんな風に軽んじていた気がする。

だが、彼らはアイドルという存在が色眼鏡で見られがちなのを百も承知で、枠に収まらず様々な分野に挑戦し続けている。何本ものレギュラー番組、コンスタントなCDリリース、五大ドームツアーと、既存のファン相手だけで、十分やっていけるほどの売れっ子にもかかわらず。そして乳首はチラチラではなく堂々と見せるタイプのアイドルだった。今回横山くんの舞台を通じて、ジャニーズってやっぱ強いよなあと思った。

 

まず第一に、主役にふさわしい華と知名度があること。門前が危険な色気溢れるダーク・ヒーローであると同時に、憎みきれない魅力を持つキャラクターに仕上がっていたのは、実存を疑われるほど*2の横山くんの美しさと、「お昼の日テレとかで見るなぁ」という親近感によるものだと思う。そしてアイドルであるから、自分の見せ方を知っている。その華やかさが観客を惹きつけ、物語は深みを増す。ファンの欲目かもしれないが、横山くんが演じていたからこそ、ラストシーンはとてもドラマチックになっていたと思う。

次に、ジェネラリストとしての経験。何かを経験することは、その知識ややり方を身につけるだけではなく、汎用性のある考え方やアプローチの仕方を学ぶことである。横山くんは物事のコアの部分を理解して吸収するのが特に上手い人だと思う。本仮屋ユイカさんが「集中力が途切れない。スタッフさんと共演者の橋渡しをしてくれる」と言っていたように、コンサート、ドラマ、バラエティ等、ジャニーズとして場数を踏んできたからこそ、全体を見渡して人をまとめ、求められるものを察知して素早くそれに応えることができるのだろう。

 最後に、強みというよりはアイドルの尊さなのだが、美しい白鳥のようであるのに、バタ足しているところを見せてくれるという点。横山くんは2か月のボイトレを積んで舞台に臨んだという。歌への苦手意識は常々語っていたが、それを感じさせないほど、声が太くて伸びやかだと思ったし、技量だけではなくて、観客の心を揺さぶる熱が込められていた。

彼は30歳を過ぎてからトランペットを始め、体をバッキバキに鍛えるようになり、上達も失敗も含め、ファンにその過程を見せてきたと思う。特殊な才能を持った人だからアイドルなのだが、それに甘んじずストイックに努力し続けている。ファンはその姿に勇気と活力をもらえる。レベルは違えど、自分も努力すれば変われるのではないかという気がしてくる(ちなみに私の夫は関ジャニ∞のファンではないが、テレビ等で横山くんの体を見るたびに「横山バッキバキやん、かっこええなあ」と言っており、因果関係はわからないものの、しばらくしてジムに通い始めた)。

観劇中、嘘みたいに端正な顔から滴る汗を目にして、「横山くん、生きてる……」と思った。アイドルは暗闇を照らす神のような存在でありながら、自分と同じように生きているひとりの人間なのだ*3

 

・おわりに

昨年のドリフェスや先日のメトロックなど、すばるくんはアウェーでいつも、「関ジャニ∞ってアイドルやってます」とあいさつする。それは「アイドルやしちょっとくらい下手でも許したってや」「俺らアイドルにしてはなかなかやるやろ」という意味ではなくて、その道一筋のプロに敬意を払いながら、なんでもやりつつもどれも手を抜かないのがアイドルだという、決意とプライドの表れだと思う。

 

ジャニーズを軽んじる人に真っ向から反論する気はない。しかし誰かを見下すより、応援した方が何倍も楽しいし、ファンでよかったなと思うことがコンスタントに起きるので、エンタメとしてめちゃくちゃにコスパがいいと思う。そしてファンになってからも、いつどこで彼らに度肝を抜かれるか予想がつかない。だから楽しい。

 

 

*1:2016年夏のアリーナツアー「関ジャニ∞リサイタル 真夏の俺らは罪なヤツ」。「Dye D?」で「Never let you go」と「熱中症」をかけた空耳ネタが披露され、横山くんは毎回熱中症で倒れる役だった。かっこいいダンス曲なのに、あれ以来熱中症がちらついて変な気分になるとの声多数。

*2:メトロックで初めて生の横山くんを目にした人の感想に「彼だけ初音ミクのように投影されているみたいだった」というのがあった。

*3:テレビガイドアルファでヤスくんが「見る者の欲望に合わせ、スター性と等身大の両面を行き来できることがアイドルの真髄」と語っていた。