切り取ってよ、一瞬の光を

エンターテイメントの話

その肩幅に夢を託して~舞台「俺節」感想

安田章大さんは身長164.5cmの人の中で一番肩幅が広い*1

安田くん主演の舞台「俺節」を観た。笑って泣いて感情を揺さぶられて、終演後は放心状態だったので、正直なところあまり記憶がない。ツアーMCで「安田の歌かなり上手いです」と自負していたとおり歌はかなり上手かったし、それどころか期待値を軽々と超えてくる熱演だった。ツイッターでは毎日のように各業界のプロが俺節を絶賛するツイートが流れてきて、素晴らしかったことは言うまでもないのだが、イチ安田担として感想をしたためたい。

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 舞台「俺節」のこと

私がTBS赤坂ACTシアター俺節を観たのは、東京公演も終わりに差し掛かった頃だった。席は二階席の後ろから数列目。先般訪れたシアターコクーンとも東京宝塚劇場とも違う、広さと奥行きと急な傾斜に驚いた。こんなに斜め下を見下ろすのは黒部ダム以来だと思った。

 

安田くん演じる主人公のコージ(海鹿耕治)は、「世の中をとっくり返してやる」という志を抱き、演歌歌手を目指して上京する。圧倒的な歌唱力を持つコージだが、あがり症で気弱なせいで、肝心な場面でうまく歌えない。お調子者ながら熱い心を持ったギター弾き・オキナワ(福士誠治さん)と出会い、演歌界の大物・北野波平(西岡德馬さん)に目をかけられ、流しの大野(六角精児さん)*2に弟子入りし、不法滞在のストリッパー・テレサ(シャーロット・ケイト・フォックスさん)と恋に落ちる。やがて、コージとオキナワの活動がプロデューサー戌亥辰巳(中村まことさん)の目に留まり、デビューの話が舞い込む。


ざっくり書くと王道ストーリーのように思えるが、コージはつまずいてばかりいる。夢も友情も恋も、進研ゼミの勧誘漫画のようにはうまくいかない。デビューの条件は、オキナワとコンビではなく、コージひとり。さらに戌亥は自身の恋人であり再起を図る元アイドルの寺泊育代(高田聖子さん)とコージを組ませ、デビュー曲として引越屋のCMソングを与える。
コージとオキナワの根城はドヤ街「みれん横丁」で、横丁の住人は犬の肉を食べ、オキナワはチンピラと紙一重だし、テレサはヤクザの支配下で体を売らされ、踊り子仲間と帰れない故郷を思い、流しの大野はカラオケの普及に押されている。なんともわびしい気持ちになったコトはあるかい?と問いかけてくるような、泥臭くて、もの悲しい、日陰者たちの物語である。性格、才能、出自、時代の流れ、運など、内的・外的要因があわさって、ほとんどの登場人物が地べたに這いつくばるようにして生きている。

だが、みな境遇を嘆くばかりではなく、朗らかにしたたかに生きている。オキナワは憎めないキャラクターで、スキニーでロックなルックスがかっこよかったし*3テレサもたどたどしい日本語がキュートで、踊り子仲間や(本来敵対するはずの)取り調べの刑事からも愛される魅力の持ち主だった。北野の重鎮でありながらコミカルな人柄や、無愛想な大野の面倒見の良い感じ、踊り子のリーダー・マリアン(高田聖子さん)の姉御肌ぶりなど、ベテラン陣の存在も光っていた。


また、悲壮感は笑いでかなり中和されていて、客席は終始笑いに包まれていた。主要三人はもちろん、周囲の異常に濃いキャラクターたちが次々と小ネタを繰り出したかと思えば、セリフの絶妙な間で笑いが生まれるなど*4、動と静、ベタとシュールの笑いの応酬がすさまじかった。
演出で印象に残ったのが、コージとオキナワが大野の下で流しとして経験を積む過程と、コージとテレサの距離が徐々に縮まる過程を、二階建てセットの上と下を使って同時並行でみせる場面。映画「ロッキー」を彷彿とさせるようなダイジェスト具合で、舞台でここまで映像的・漫画的なみせ方ができるのかと驚いた。

 

舞台「上を下へのジレッタ」で横山くんがどこを切り取っても華があったのと対照的に、コージからアイドルのキラキラオーラは感じられなかった。津軽訛りのボサボサ頭の着たきり雀で、へら、と素朴に笑ったり、くしゃしゃな顔で泣いたり、感情を露わにすることもあるが、どこまでも等身大だった*5。舞台上でその他大勢に埋もれる安田くんを見失うこともあった。

周囲の大人たちのセリフは、コージらを優しく力強く導く名言に満ちていて、心に刺さるものがたくさんあった。序盤でハッとさせられたのは、うまく歌えないコージを「生きているだけで恥ずかしいんだよなぁ」と評したみれん横丁の仲間の発言。恥の多い人生を送ってきました。そういえば太宰治もコージと同じ津軽の出身だった。同様に大野も「お前、生きづらいだろう」とコージに問いかける。これは舞台「俺節」のテーマのひとつで、俺節は生きづらい者たちの物語であり、生きづらい者たちへのメッセージではないかと思った。特にコージにおいては、生きづらさの原因は自己肯定感の低さにあるような気がした。

そんなコージがひとたび歌い始めると、空気が色を変える。普段は緊張して歌えないのに、どうしても伝えたい思いがあふれたとき、歌に乗って噴き出して、周囲を圧倒する。コージの歌は乱暴なまでの説得力をもって、聴く者の心を揺さぶり、物語を展開させる*6なお、俺節において一番コージの歌にほだされがちなのは、ヤクザたちである。


一幕の最後、コージがヤクザたちからテレサを奪還し、ふたり手をつなぎ正面を向いて歌うシーンでは、それまでの冴えないコージとは打って変わって、背筋が伸びて目に強い光が宿っていた。精悍な顔つきに、夢も、仲間も、恋人も、すべて背負うという決意が表れていて、とても童貞とは思えなかった。

しかし前述のとおり、デビューに際してオキナワはコージと袂を分かつ。さらに自分がコージの重荷になっていることに気付いたテレサは、不法滞在の罪を警察に自首し、コージの元を離れる。腹をくくったコージは育代とデビュー寸前まで漕ぎつけるも、育代のヘアヌード写真集を企画するスポンサーに空気を読まずマジギレしてしまい、デビューは破談となる。頑固でまっすぐなコージには、業界で生き抜くための、清濁併せ呑むようなしたたかさが足りない。裏を返せば、戌亥が言うところの「隙がある」というコージの魅力なのだが、結果的に自分のみならず戌亥と育代のチャンスを潰してしまう*7

 

コージと別れたあとやさぐれたオキナワは、色々あって北野宅の座敷牢に閉じ込められるが、持て余した時間で自分と向き合い、曲を作る。北野に鼓舞され改心したオキナワは、みれん横丁に戻り、歌うことを諦めたコージにまた一緒に歌おうと誘いかける。拒否したコージだが、戌亥から予定していた仕事を穴埋めするよう指示され、ひとりステージに立つ。

アイドルユニットの前座として、アイドルファン(というかほぼジャニオタ)たちに囲まれた完全アウェイで、無難に上手いが全然心に響かない歌を披露する。そこへ強制送還目前のテレサと踊り子仲間、オキナワが登場する。「さっきの歌、全然よくなかった」とテレサに痛烈に指摘されるも、「私とコージで私だから」という言葉を聞いたコージは、それが奇しくもオキナワに託された曲の歌詞と同じであると気づく*8

 

俺節という人間讃歌

俺節の概要を知ったとき、安田担のみならず、関ジャニ∞ファンは「福士さんがギター弾きの役なんだ。ヤスくんはギターを弾かないのか」と少なからず残念に思ったのではないだろうか。もちろん福士さんのギターは重要な役割を果たしていて、私もコージとオキナワのコンビに愛着を持っていたのだが、ここでその諦めに似た思いが、完全に覆される。

コージはオキナワから受け取ったギターを弾き、ひとりで「俺節」を歌う。ヤスくんがギターを弾く。コージがギターを弾いて歌う。頭が真っ白になって、興奮で手が震え、涙がとめどなくあふれてきた。土砂降りの中*9、命を削り魂を燃やして歌うコージの、ほとばしるような歌声が劇場全体を満たし、空気をビリビリと震わせているようだった。振動が観客の熱を受けて増幅し、それに共鳴するように心が震えて、私はただただ泣きながら、歌うコージを見つめていた。

 

あとで冷静になって考えれば、オキナワ、ギター弾かへんのか~い!コージめちゃくちゃギター上手いやないか~い!*10という展開なのだが、とにかく理屈ではなくて、役者の力、歌の力、舞台の力が相乗した極致と言いたくなるような感動があり、コージの歌が観客全員に降り注いで、痛いくらいに沁み込んでいたと思う。

コージがギターを弾くという安田担的なエモさだけで涙したのではない。たしかにコージはひとりで舞台に立っていたが、ひとりではなかった。「俺とお前で俺」という歌詞のとおり、ずっとひとりで全てを背負おうとして押しつぶされてしまったコージを、オキナワが、テレサが、一緒に背負って立っていた。コージが自分でギターを弾いたのは、ふたりから受け取った気づきをもって、自分の中で確実な「答え」を出すための通過儀礼だったのではないだろうか。また、コージの熱唱を見届けたテレサは帰国してしまうが、離れていても「俺とお前で俺」であることに気付いた二人にとっては、決して悲しいばかりの別れではないという気がした。

 

ステージを見ていたみれん横丁の仲間たちの期待に反して、翌日の新聞にコージのことは全く載っていなかった。物語は、横丁の仲間たちが、照れながらも少し誇らしげなコージとオキナワを称える場面で幕を閉じる。コージは世の中をとっくり返すことはできなかったが、彼の歌は、半径5メートルくらいの人々(もしかしたら、最初ブーイングしていたアイドルファンたちにも)には確実に響いていた。彼がひとりではないということを実感し、自己肯定感を得ることができたという意味で、私にとってはハッピーエンドだった。

そして、失敗して何もかも失って自暴自棄になっても、歌うこと、演奏すること、音楽を作ることをやめられなかったコージとオキナワは、根っからの表現者だった。暴力にも、貧困にも、運にも、何人にも奪えなかった彼らの聖域が、歌で表現することだったのだと思う。その聖域を持ち続ける限り、コージとオキナワの夢は続いていくはずだ。たとえ今後、今以上に絶望的な状況でいよいよ夢が絶たれたとしても、歌は彼らの生きる希望であり続けると思う。

何かに似ていると評するのは野暮だと思うが、クライマックスの場面は「生きづらい人間がステージに立ち、音楽を奏で、聴く耳を持たない人もいたが、届く人には確実に届いていた」という点で、ドラマ「カルテット」の最終話を彷彿とさせる。カルテットが過去を肯定し未来を優しく照らす物語であったのに対し、俺節は転んでも立ち上がることができる力の源を見つける物語だったような気がする。どちらも、生きづらい者に向けた、とても美しい人間賛歌だった。

カーテンコールで安田くんは真ん中に立ち、割れんばかりの拍手を浴びて、清々しい顔で微笑んでいた。人情と悲哀に満ちた泣き笑いの3時間半を終え、ようやくアイドルの安田くんを見たという気がして、また泣けた。

 

器用で不器用な男

安田くんがレギュラー仕事を抱えながら、すさまじい熱量で一日二公演をこなすことができるのも、最高のカンパニーが共に背負っているからであり、そしてここにいない関ジャニ∞のメンバーも同様に背負っているのだろうと思った。

安田くんは多面的な人だと思う。芸術家肌で感性の人でありながら、自分やグループを冷静に客観視している。海のように広く深い優しさを見せるが、冷たい目で正論を吐き捨てる時もある。女子力の高いおしゃれなヤスくんでありながら、尼崎の男・オス安田でもある。外見や役に寄せていく傾向がある*11ような気がしていて、丸山くんが「章ちゃんはブレブレな人」と評したのはまさにその通りだと思う。その切り替えが上手くできないこと等を「不器用」だと自己評価しているところ*12が、隙があって魅力的だ。

一方で、自分がアイドルであることと、ファンがアイドルに求めていることにとても自覚的であるから、ファンの予想をいい意味で裏切りこそすれ、決して絶望させはしないだろうという安心感がある。さらには何でもこなせるオールラウンダーであり、才能あふれるソングライターでもあり、まだまだ隠し玉を持っているような底知れなさがある。安田くんの多面性に翻弄され、活躍を目にするたびに新たな魅力に気づいて、ますます沼にはまっていく。

俺節は、脚本・演出の福原充則さんが、映画「ばしゃ馬さんとビッグマウス」で天童義美を演じていた安田くんを見てコージにキャスティングしたという。「ばしゃ馬さん」の吉田恵輔監督は、たまたまテレビで安田くんを目にして「天童、いた!」とオファーしたらしい。俺節で安田くんは誰に見つかって、次にどんな安田くんが見れるのか、楽しみで仕方がない。

 

世界中の夢 背負う群れ

「客は歌い手の中に自分を見る」という北野のセリフを借り、俺節を観て自分を振り返った話をしたい。私は職業として文章を書く人になりたかった。自己のセンスとスキルと知識によって、読み手の心を動かす文章を書けたらいいなと憧れていた。コージと同じく話すのが苦手で、自分の考えは文章で表す方が好きだった。しかしコージほどの才能もなく努力もせず、ちょうど「ばしゃ馬さん」の天童のように、ただ根拠のない選民意識を持っていた。結局、人生を賭ける度胸もなくて、行動を起こすことなくただ平凡な会社員に収まった。

だが、ジャニーズを中心としたエンターテイメントの話をブログに書き始めると、次第に私の文章を読んで、「コンサートの感動がよみがえった」「関ジャニ∞に興味が湧いた」「アイドルが尊くて泣ける」「七海ひろきさんを応援したい」「クレイジーケンバンドってイイネ」等の感想をもらえるようになった。その共感や反応が想像以上に嬉しく、アイドルのおかげで、自分の文章を通じて読み手の心を動かすという、かつての夢がささやかながら叶ったような気がしている。

 

また、大人になってからアイドルにハマる理由のひとつは、仕事も家庭も落ち着いて、現実と自分の力量の差を知ったものの、特別な存在になりたいという欲望や諦めきれない夢を、彼らに託しているからだという気がしている。

おこがましいのは承知の上だが、関ジャニ∞の活躍や彼らに対する称賛が、自分のことのように嬉しく誇らしい。メトロックでのパフォーマンスの様子や非ジャニオタであるロックファンの感想をツイッターで見て、関ジャニ∞のファンでよかったと思って泣いた。俺節で安田くんの熱演を見て、舞台のプロたちの絶賛を知って、安田くんを好きでよかったと思って泣いた。CD特典映像の新年会で、現状を打破してさらに上を目指すという意気込みを語る彼らを見たのち、アルバム「ジャム」を中心としたブレイクの機運を肌で感じて、感慨深くて心が震えた。

 

さらに、私たちは落ち込んだとき、やりきれないとき、押しつぶされそうなとき、あたかも「俺(ファン)とお前(アイドル)で俺」であるかのように、アイドルの存在や作品によって負担を軽減し、力をもらうことができる。挑戦する姿に勇気をもらい、仲良くキャッキャする様子に癒され、お昼休みに丸山くんの日記*13に励まされ、会社帰りにコンビニでアルバムを受け取るために仕事を乗り切る。

大勢のファンの様々な思いを彼らはまるっと背負って、なんでもないような笑顔で、未来に目を向け、息をするように希望を振りまき、ぴかぴかと輝きながらステージに立っている。

 

私の好きなアイドル安田章大さんは、身長164.5cmの人の中で一番肩幅が広い。

  

*1:安田くんの自称。過去の雑誌インタビューより。

*2:個人的に、鉄オタ予備軍の子どもの要望で、タモリ倶楽部で自作の京都鉄道博物館の歌を弾き語る六角さんの映像を繰り返し見ているので、六角さんの生歌生ギターは感無量だった。

*3:福士誠治さんがめちゃくちゃかっこよかった。あっさりした顔の男前。

*4:テレサを取り調べる刑事の「……千昌夫か」がよかった。

*5:ただし顔は可愛い。

*6:安田くんは熱量の調節が上手く、緊張している時、そこそこ上手い時、本気の時の演じ分け(歌い分け)が素晴らしかった。

*7:この時点で、コージは育代とデュエットでありながら完全に「ひとり」だった。それに対し、なりふり構わず夢を追う戌亥と育代は、後述の「俺とお前で俺」という運命共同体の象徴のように感じた。

*8:この辺がクライマックスでとてもドラマチックなのだが、泣きまくっていたので詳細を覚えておらず、描写がめちゃくちゃ雑になってしまっている。無念。

*9:舞台でここまで降らすのかと驚くほどの、黒部ダム級の水量だった。

*10:同時期に舞台「蜘蛛女のキス」に主演し、役作りのために髭を生やしていた大倉くんは、「関ジャニ∞クロニクル」においてすばるくんに「髭男爵」といじられていた。

*11:オールバックでスカジャンの時はオラオラしているし、今のビジュアルだとテレビ番組でもコージにしか見えない。

*12:時々日本語がおかしいときがあって、そこも好きなのだが、テレビガイドアルファで「(言葉より)描いた絵や作った曲に触れてくれた誰かが、好き勝手に汲み取って共鳴してくれる、その感情が一番大事」と語っていた。

*13:ジャニーズウェブで連載されている丸山くんの日記「丸の大切な日」。驚きの毎日更新。