ジャニオタに至るロング・アンド・ワインディング・ロード
ジャニオタの方々を見ていると、「若い頃はバッチバチのオタクまたはサブカルで、ジャニーズには全然興味がない、むしろ『ジャニーズ(笑)』というスタンスだったのに、大人になってから突然すごい勢いで沼に転げ落ちてしまった人」が、一定数いるようである。私も(バッチバチではないにせよ)その一人だが、この現象はアイデンティティや自意識と深く関連しているのではという気がしている。自分の「オタク期」から「サブカル期」、「空白期」、そして「ジャニオタ期」への変遷をなぞりながら書いてみたい。
オタク期
レベル:10~15
ぞくせい:くらめのオタク
そうび:ふところのナイフ
私は田舎の公立校で思春期を過ごした。外見はよろしくない、運動はできない、コミュ力もないタイプで、スクールカーストの中〜下あたりでひっそりと生きていた。気の合う友人はいたが、様々なタイプの人間がひとところに押し込められたような学校はとにかく居心地が悪かった。クラスの中心にいるような、「外見の良い魅力的な人気者」に対する強い劣等感を抱く反面、そういう人たちは大抵チャラついたりイチャついたりヤンチャしたりしていたので、とても忌々しく思っていた。
幸か不幸か、私は少し得意なものがあったために、「私はこいつらとは違う」という選民意識を持ち、劣等感で空いたアイデンティティの穴を補うになる。パッと見こそ地味なものの、懐に隠し持ったナイフを研ぐように、内向きにチョンッチョンに尖っていたのである。
また、そんな環境から逃避するため、漫画、アニメ、お笑い、音楽などを趣味とし、黒歴史的な創作活動を行い、ダイアルアップでピーヒョロロ~とインターネットに接続し、掲示板や、個人の創作・感想サイト、テキストサイトを巡回するなどして過ごしていた。
この頃のジャニーズはSMAPやTOKIOが活躍し、Kinki Kidsが華々しくデビューし、Jr.黄金期が始まろうとしていた。母の影響でKinki Kidsの堂本光一さんを好きになり、「LOVE LOVE あいしてる」等を楽しむようになった私は、小学生女子にありがちな自己紹介カードの好きなタレント欄に「光ちゃん」と書いた。
しかし、ジャニオタの芽は無慈悲にも摘まれてしまう。自己紹介カードを見たキラキラ女子に「光ちゃんって(ワラ)いや、ジャニーズ好きってキャラじゃないっしょ(ワラ)」と嘲笑されたのである。目の前が真っ暗になった。「光ちゃん」と書いた私もまあまあイタかったし、彼女は軽くからかうくらいの感覚だったかもしれないが、その言葉によって「ジャニーズは私ではなく彼女たちの文化である」と痛感したのである。
ピカピカした衣装で、愛とか恋とかの曲を歌い、疑似恋愛を煽ってくる顔の良い人気者の男性たちは、よくよく考えると、私が苦手としていたクラスの男子そのものだった。ジャニーズとの疑似恋愛の相手は、現実世界同様、私ではなく彼女たちがふさわしいのだと思った。こうして私は画面の向こうの人気者にも気後れするようになり、上記のオタク趣味にますます没頭していく。「私→コンテンツ」の一方通行、または「私→誰か⇔誰か」の関係性を端から見ている分には、自分を否定されることがないし、純粋に楽しかった。自己肯定感の低さゆえの「自己不在」である。
サブカル期
レベル:16~23
ぞくせい:サブカルかぶれ
そうび:サブカルのよろい
高校・大学と進むにつれ、苦手な人の割合が減り、学校コミュニティは息がしやすくなった。高校で衝撃的だったのは、男子も女子もみな真面目で穏やかで優しく、異様に可愛く洗練された子が多いにもかかわらず、私にも対等に接してくれるということだった。派手なグループや地味なグループがあったが、マウンティングなどはないし、お互いに個性や長所を認め合うような空気があった。ここには暖かい寝床とパンとシチューがある。もう外敵に怯えなくていいんだ。山から人里に出てきた私は、心のナイフをおさめた。
しかし、広い世界に出たことで、自分が井の中の蛙であったことに気付く。得意だと思っていた分野において、自分よりはるかに高いレベルの人たちがワサワサしている。アイデンティティを補強していた選民意識の崩壊である。「自分はどうやら特別な何者かにはなれそうにない」という現実を受け入れざるを得なくなった私は、代わりにサブカルのよろいをまとうことで、アイデンティティを守ろうとする。
サブカルは、「なんだか高度に文化的で通っぽくておしゃれで頭がよさそう」な趣味嗜好であり、サブカル的なもの自体が魅力的だったことに加え、「(特別な人間ではないけど)そこいらの人とはちょっと違うワタシ」をアピールするラベルとしてうってつけだったのだ*1。
この頃、ジャニーズはKAT-TUNを筆頭にオラオラ感が強く、「明るめの茶髪、長い襟足、鋭利な眉毛、ごつめのシルバーアクセサリー、やたら暗い室内又は夜のガード下のフェンス」のような、ヤンキーや不良に似た印象があった。一方、嵐は正統派ジャニーズっぽさとメンバーの仲の良さ、楽曲のキャッチーさを武器に、国民的アイドルになりつつあったように記憶している。
当時の私にとって、いずれもジャニーズは「わかりやすくかっこいいもの」だった。大衆性が高く、ファンが多く、露出も多い。理解するのに知識がいらない、テレビをつけるだけで受動的に摂取できるコンテンツ。あざとくかっこよさをアピールするやり口や、歯の浮くようなセリフ、特に上手いわけではなくどこかで聞いたようなそれっぽい曲は、「どうせお前こんなん好きなんやろ選手権」*2のように思えた。そんなものに夢中になるなど事務所やメディアの思う壺である、かっこつけすぎて逆にかっこよくない、と思い、彼らとそのファンを軽んじていた。
しかし、しばらくして私はサブカルになりきれない自分に気づく。邦ロック等を好んで聴くものの、コード進行がどうのとか邦楽史的な位置付けがどうだとかはよくわからないので、「『ばらの花』*3のメロディ、なんかすごくキレイ。歌詞もエモい。ジンジャーエール飲みたい」等といったあたまのわるい感想しか抱けないのである。極めたいならサブカル的な歴史や理論を勉強すればいいのだが、義務感に追われるのは嫌だった。
さらに、「サブカルでっせ!どや、おしゃれでっしゃろ!」と主張するものを、ありがたがって摂取する行為は、サブカルの精神に反するのではないのではないか?という疑問が生じてくる。……待って、これ、「どうせお前こんなん好きなんやろ選手権」だ!
サブカル的なものが①本当に好きなのか、②サブカル的に良いものであるとされているから好きなのか、③「サブカル的に良いものが好きな自分」が好きなのか、わけがわからなくなってしまった。 ①と言い切るには知識や意欲が足りないし、②はダサいし、③が真実なのだが、あまりにも自己愛にまみれていて認めたくない。私は結局、サブカルのよろいで身を守ろうとしたものの、くさりかたびらではなく、単語カードをとめる銀のわっかをたくさん繋げたもの*4しか身にまとえなかったのである。
空白期
レベル:24~26
ぞくせい:ふつうのひと
そうび:なし
この頃は仕事、結婚、出産、育児等で人生が忙しく、「挙動はめっちゃオタクっぽいのに特に何のオタクでもないふつうのひと」として過ごしていた(しいていえばさまぁ~ずの番組を熱心に見ていた。)。
結婚して一番ほっとしたのは、もうモテとか可愛さとかの尺度に振り回されなくて済むということで、それは「外見の良い魅力的な人気者」に対する劣等感からの解放だった。また、夫がオタクでもサブカルでもなく、そういうカテゴライズやラベリングに興味がない人間であったため、もうサブカル等の威を借りて自分を繕わなくてもいいのだと気づかされた。
一方で、自由度の高い学生時代とは異なり、日常生活において腹立たしいことも悲しいこともたくさん出てきたので、趣味などの自分に選択権があるものにおいては、負の方向に心を揺さぶられたり、しんどい思いをしたりしたくない、ただ心安らかに純粋に楽しいものだけ摂取したい……と思っていた。
そこで行きついたのがエンターテイメントの王者、ジャニーズである。
ジャニオタ期
レベル:27~
ぞくせい:ジャニオタ
そうび:ペンライト、そうがんきょう、うちわ、メンバーカラーのふく
楽しくて楽しくて楽しいジャニーズを知って、私はオタクの本領を発揮し、電光石火のスピードでズブズブに沼にハマってしまった。
若い頃、恐れたり軽んじたりしていたジャニーズは、「苦手なことや望まないことでも向き合って努力する」「自分と違うタイプの人でも受け入れて関係を構築する」といった、私が避けてきたことを、若い頃から真摯にやってきた人たちだった。私は大人になってようやく、彼らが特別な存在なのは、決して外見の良さだけによるものではなく、努力の賜物であることを知るのである。
そして、ジャニーズの「どうせお前こんなん好きなんやろ選手権」は、彼らと周囲の人たちが本気で作っているものであり、想像以上にハイクオリティで、ファンのツボを突いてくるものだった。また、疑似恋愛だけがジャニーズの楽しみ方ではない。人としての魅力やメンバーの関係性などを楽しむことは、暗めのオタク時代に染みついた「自己不在」の精神にフィットしている。
特攻服を着てポケットバイクを乗り回していた関ジャニ∞は、キャリアを重ね、ある程度の落ち着きと大人の魅力を得て、それでいて少年(一部幼児)のような可愛さを失わず、突然女子高生になるなどして、貪欲に前に進み続けていた。その道筋と、自分の人生と成熟度合いがタイミングよく交錯して、私は関ジャニ∞のファンになったのである。
もっとヤンキー感が薄く、オタクみ・サブカルみのあるジャニーズはいるはずなのだが、関ジャニ∞は「関西弁が好き」「邦ロックとか好き」「仲良しおもしろおじさんが好き」という私の好みに合致したのだと思う。何か要素が欠けていたり、タイミングがずれていたら、こうはならなかっただろう。これまで自分が歩んできた、長く曲がりくねった道が肯定されるような幸福感を感じる。「ご覧、ほらねわざと逢えたんだ*5」という一節を、うちわに書いて掲げたい気分である(たぶんうちわ一枚には収まらない)。
私は恥ずかしながら30歳近くなって、ようやく、なんのしがらみもなく、好きなものを自分で決められるようになった。先入観や偏見なく、良いものを認められるようになった。ジャニーズも、ジャニオタのみなさんも、ジャニオタである自分も好きだ。長い長いアイデンティティの模索と自意識の葛藤の末に行きついたのは、「ジャニオタ」という属性だった。いま、とても満たされている。居心地が良くて、楽しい。それゆえに、この沼からはなかなか抜け出せないような気がしている。